日記:レイチェル・カーソンとジョン・デューイをつなぐ「宗教的なるもの」


        • -

 レイチェル・カーソン仏教徒ではない。青春時代にキリスト教の教会に所属して、晩年になっても、せいぜい寡黙になったというくらいのことでしかない。しかし、彼女は確かに「宗教的」であった。それは、デューイの宗教的ヒューマニズムの意味においてである。彼の言葉は、『沈黙の春』の出版五十周年を祝うのにふさわしい贈り物である。

 つぎのような活動は、その内容から言って宗教的である。すなわち、理想として掲げられた或る目標が、誰にとっても永続的な価値があると信じ、たとえ自らが損失を被ることが分かっていても、万難を排してその目標を追求するという場合である。研究者、芸術家、慈善家、一般市民、最下層の男女といった多くの人々が、でしゃばりや自己顕示とは無縁に、こうした仕方で自らの統一を行い、生存の諸条件と自身との間の関係を統一している。次になすことは、彼らの精神とインスピレーションを多くの人々に広げることである。

 レイチェル・カーソンが世界に贈ったものは、「リアルなもの」へ、すなわち、海が語る詩や、鳥の鳴き声といったシンプルな喜びに、私たちを立ち戻らせることの中にある。死が近づいた頃、移動する蝶のはかない愛らしさに、彼女は安らぎと意味を見出していたし、ある時には、E・B・ホワイトへの手紙に、『沈黙の春』の出版に関して、次のように書いたのだった。「ツグミの鳴き声以上に愛らしい記念碑など、私には考えられません」。
    −−コニー・ラッシャー(前川健一訳)「レイチェル・カーソンの宗教的ヒューマニズム:『沈黙の春』出版五十年を記念して」、『東洋学術研究』第51巻第2号、東洋学術研究所、2012年、158−159頁。

        • -