日記:科学研究の理想的目的=ヴェーバー

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 さて、以上に述べてきたことの帰結として分かるのは、科学研究の理想的目的は経験的なものを「法則」に還元することでなければならない、という意味で、文化事象を「客観的」に取り扱うことには意味がない、ということである。そうした取扱いが無意味であるというのは、しばしば主張されてきたように、文化事象ないしは精神現象が、「客観的」に法則的に生起することがないからではなく、むしろ、(1)社会的諸法則の認識は、社会的実在の認識ではなく、むしろこの〔社会的実在の認識という〕目的のもとに、われわれの思考が用いるさまざまな補助手段のうちのひとつにすぎないからであり、また、(2)いかなる文化事象の認識も、つねに個性的な性質をそなえた生活の実現が、特定の個別的関係においてわれわれにたいしてもつ意義を基礎とする以外には、考えられないからである。ところが、いかなる意味で、またいかなる関係において、そうである〔生活の現実がわれわれにたいして意義をもつ〕かは、どんな法則によっても、われわれに明らかにされない。というのも、それは、価値理念によって決定されるからであり、われわれは、個々のばあいに、そのつど、この価値理念のもとに「文化」を考察するのである。「文化」とは、世界に起こる、意味のない、無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義とを与えられた有限の一片である。人間が、ある具体的な文化を仇敵と見て対峙し、「自然への回帰」を要求するばあいでも、それは、当の人間にとって、やはり文化でることに変わりはない。けだし、かれがこの立場決定に到達するのも、もっぱら、当の具体的文化を、かれの価値理念に関係づけ、「軽佻浮薄にすぎる」と判断するからである。ここで、すべての歴史的個体が論理必然的に「価値理念」に根ざしている、というばあい、こうした純論理的−形式的事態が考えられているのである。いかなる文化科学の先験的前提も、われわれが特定の、あるいは、およそなんらかの「文化」を価値があると見ることにではなく、われわれが、世界にたいして意識的に態度を決め、それに意味を与える能力と意思とをそなえた文化人である、ということにある。この意味がいかなるものであろうとも、それによってわれわれは、人生において、人間協働生活の特定の現象を、この意味から評価し、そうした現象を意義あるものとして、それにたいして(積極的ないしは消極的に)態度を決めるのである。そうした態度決定の内容がいかなるものだろうとも、−−この現象が、われわれにとって文化意義をもち、この意義によって初めて、その現象が、われわれの科学的関心を引くのである。したがって、いまここで、現代の論理学者の用語を借り、文化認識の価値理念による被制約性について語るとしても、文化意義は価値のある現象にのみ与えられるべきである、と思い込むような、粗野な誤解は避けてほしい。売春も、宗教や貨幣とまったく同様に、文化現象である。そして、この三者がすべて同様に文化現象であるのは、それらの存在とそれらが歴史的にとる形態とが、われわれの文化関心に直接ないし間接に触れ、価値理念に由来する観点のもとで、われわれの認識意欲をそそるからであり、もっぱらそれゆえ、また、もっぱらそのかぎりにおいてである。そのさい、当の価値理念が、売春・宗教・貨幣といった概念で考えられる実在の断片を、われわれにとって意義あるものとするのである。
    −−マックス・ヴェーバー(富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳)『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』岩波文庫、1998年、91−94頁。

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