日記:学問の目標について=ニーチェ


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 第一書 一二
 学問の目標について。 −−なんだって? 学問の究極の目標は、人間に出来るだけ多くの快楽と出来るだけ少ない不快をつくりだしてやることだって? ところで、もし快と不快とが一本の綱でつながれていて、出来るだけ多くの一方のものを持とうと欲する者は、また出来るだけ多く他方のものを持たざるをえないとしたら、どうか? −−「天にもどとく歓喜の叫び」をあげようと望む者は、また「死ぬばかりの悲しみ」をも覚悟しなければならないとしたら、どうか? おそらくそうしたものなのだ! ストア主義者なら少なくともそういうものであると信じていたのであり、彼らが人生から出来るだけ少ない不快をしか受けないためにとて、出来るだけ少ない快楽を望んだのは、辻褄の合ったことだった。(彼らが「有徳な者は最上の幸福者」という格言を口にしたとき、そこにはこの学派の大衆むけ看板ならびに紳士連に対する懐疑論的な鋭い標語がこめられていたのだ。)今日もなお諸君は次のことがらのどちらかを選択するのだ、 −−できるだけ少ない不快、要するに無苦痛か(社会主義者やあらゆる党派の政治家たちが彼らの人民に勿体振って約束するものも結局のところこれ以上のものではない)、それとも、これまで滅多にしか味わえなかった素敵な快楽や悦びのゆたかな増大に対する代償としての、出来るだけ多くの不快か! もし諸君が前者を選ぼうと決心するなら、したがって人間の苦痛な状態を鎮め軽減させようと欲するなら、そのときこそ諸君は悦びを味わいうる諸君の能力をも抑えつけ縮減させなければならぬ。実際のところわれわれは、学問によって、一方の目的をも他方の目的をも同じように促進することができる! おそらく今日なお学問は、人間亜からその喜びを奪い去り、彼を一そう冷たく、一そう彫像的に、一そうストイックにするというその力のゆえに、ひろくひとびとの熟知するところとなっているのだろう。だがまた学問はそれ以上に偉大な苦痛の齎し手として発見されることもあるだろう−−そうなったあかつきにはおそらく同時に、学問のもつ逆の力も、悦びの新しい星空を輝かしめるその巨大な能力も、発見されることだろう。
    −−ニーチェ(信太正三訳)『悦ばしき知識 ニーチェ全集8』ちくま学芸文庫、1993年、74−76頁。

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