覚え書:「平成とは あの時:2 国連PKO派遣、舞台裏 編集委員・三浦俊章」、『朝日新聞』2017年10月31日(火)付。

        • -

平成とは あの時:2 国連PKO派遣、舞台裏 編集委員・三浦俊章
2017年10月31日


写真・図版
カンボジア内戦と和平への歩み

 カンボジアでの国連平和維持活動(PKO)で、日本は初めて自衛隊陸上部隊を海外に派遣し、戦後の安全保障政策の分岐点となった。現地の国連機構のトップを務めた明石康さんの当時の日記から、そのドラマを再現する。

 ■始まり 湾岸戦争の後遺症、残る中で

 1991年10月、カンボジア内戦に終止符を打つパリ和平協定が調印された。国連が武装解除を行い、行政を管理、憲法制定議会の選挙を実施する。和平プロセスを担う国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)の設置が決まった。当時明石氏は軍縮担当の国連事務次長だった。

 「次期事務総長ブトロス・ガリ氏に会う。カンボジア特別代表の話があり、やや驚く。1960年代カンボジア駐在当時のシアヌーク氏との衝突があったことに触れ、彼の性格的不安定、外交上の約束を平気で破る態度から、私が任にふさわしいか疑問があると述べた。同時に、UNTACは、国連にとりリスクの多い活動であり、チャレンジとしてはこれ以上のものは無く、事務総長が私に固執し、カンボジアを含む関係国が賛成するならば、受諾を考えるが、1週間の余裕が欲しいと言う」(91年12月31日)

 明石氏は日本の波多野敬雄・国連大使に電話する。翌元日、日本政府の反応が返ってきた。

 「東京の反応は大体好意的とのこと。ただし、国連局長がPKO法案へのマイナスの影響を気づかっている様子(私が特別代表に任命されると、日本の貢献はそれだけでよく、平和維持活動への参加がなくともよいではないかということになりかねない)」(92年1月1日)

 当時の政府・自民党湾岸戦争の後遺症の中にあった。90年のイラクによるクウェート侵攻後、政府は自衛隊派遣の枠組みを模索したが、世論や野党の反発が強く、試みは頓挫。日本は135億ドルを拠出するが、「カネしか出さない」と批判されたというトラウマが残った。カンボジアは再挑戦のチャンスだった。

 代表に就任した明石氏は日本政府の強力な支援を受けるが、当時の国論を二分したPKO派遣問題は、以後長い影を落とすことになる。

 ■駆け引き 調停、難民帰還…課題山積み

 カンボジアで明石氏を待っていたのは紛争4派(プノンペン政権、シアヌーク派、ソン・サン派ポル・ポト派)の意見の対立を調停し、武装・動員解除、難民帰還、憲法制定議会を選ぶ総選挙を実施するという、きわめて困難な課題だった。

 カギを握っていたのは、かつての統治者としてなお国民の信任があついシアヌーク氏の存在だった。だが、その本人に問題が多かった。

 「ありあまる才能と経験からくる自己過信、術策をろうする傾向、会う人ごとに機嫌をとる性癖などあり、能力と頭脳が傑出していることからadviceを軽視し、discussionを重んじないこともある。彼は究極的に民主主義者ではない。しかし、彼のprestigeと能力を抜きに、カンボジアの安定は望めない。欠陥や性癖に目をつぶりながら、彼をおだて、勇気づけ、彼の意見を可能なかぎり尊重しながらやってゆく他はないだろう」(92年12月31日)

 シアヌーク氏は、なにかあると、かつての亡命先である北京に引きこもった。明石氏は、ときには北京まで出かけて説得しつつ、粘り強く信頼関係を維持した。

 カンボジア和平を担うUNTACには、世界中から2万2千人が参加した。トップである明石氏は、あくまで国際公務員としての立場を貫かねばならない。

 しかし、日本を強く意識する時もあった。内戦を終わらせたパリ協定から1周年。王宮前で行われたパレードに、1カ月前に到着した自衛隊も参加した。

 「日の丸が一つだけ外国に出ることはよくない。しかし44カ国の国旗や国連旗と一緒に出ることは、新しい国際安全保障へのコミットメントを示しているのだ。非現実的な孤立の時代が終わりを告げ、日本も世界の中に入ったのだ」(92年10月23日)

 ■日本人の犠牲 厳しい国内の反応、撤退論も

 93年になると選挙が迫ってきた。南部タケオ州に駐屯する自衛隊だけでなく、各地に文民警察官、国連選挙ボランティアらが展開していた。

 4月8日。中部コンポントム州で国連選挙ボランティア、中田厚仁さんが車で走行中に何者かに撃たれ、殺害された。情勢は緊迫する。明石氏は幹部会を招集した。

 「選挙のやり方を『攻め』の姿勢から『守り』の姿勢に全面的に変える必要について合意。しかしそれでもわれわれの人員を全部テロから守ることは不可能なのは明らか」(93年4月8日)

 国連選挙ボランティアからさらに犠牲者が出たらボランティア全員が引き揚げる、という所まで行った。

 5月4日。タイ国境近くのアンピルで文民警察官の高田晴行・警部補(のちに警視に昇進)が武装集団の襲撃を受け、亡くなった。日本国内の反応は一段と厳しくなる。野党だけでなく、一時は自民党からも撤退論が出た。警察庁からは配置換えによる安全確保の要請が来た。

 「邦人にだけ配置換えを認めたり、プノンペンへの一時集合を認めたりするわけにはゆかない。文民警察全体の安全を見直す中での検討を約束した」(5月10日)

 「PKO協力本部事務局長から国内情勢、特に宮沢総理の苦衷と、警察庁による色々な批判や注文、派遣の警察官夫人たちが来て泣いて訴えられたことなど聞かされた。かなりemotionalな空気である」(5月14日)

 明石氏には、日本が敏感過ぎるとも思われたが、それが現実だった。のちに一時帰国中、故高田警視の妻と電話で話をした際に、危険は予知できなかったのかと問われた。

 「その地域でポル・ポト派による危険は増していたが、実際に遭遇したような激しい攻撃は予想できなかったと述べるしかなかった。辛(つら)い会話だった」(7月29日)

 ■新政府樹立 総選挙の投票率89%、達成感

 殺害事件後も治安は沈静しなかった。ポル・ポト派は総選挙に参加せず、妨害工作を続けた。状況は予断を許さない。北京に滞在していたシアヌーク氏は、明石氏の要請を受けて帰国する。

 選挙初日を迎えた。

 「夜中に、ものすごい轟音(ごうおん)がして、ポル・ポト派による砲撃が始まったのかと思った。真相は、はげしい雨の到来だった。時計は午前4時近くを指していた。あとでUNTAC本部で何人かが同じ懸念をいだいていたと知った」「小学校の投票所に行く。大変な人出だ。次にオリンピック・スタディアムの投票所に移動。老若男女の拍手に迎えられた。新生カンボジアを祝う気持ちが、ジーンと胸に伝わってきた」(5月23日)

 恐れていたポル・ポト派の大規模攻撃はなかった。6日間にわたった選挙は投票率89%。シアヌーク派を継いだフンシンペック党が第1党、旧プノンペン政権の人民党が第2党となり、両派の暫定政府ができた。

 現地での1年半の任務を終え、明石氏が離任する時が来た。王宮で開かれた晩餐(ばんさん)会に出席、宴は午後6時から午前1時半まで続いた。

 「シアヌーク王は、私とUNTACへのお別れの言葉を言った。大変な讃辞で、これがUNTACと二度も縁を切った人かと思った。拍手のあと『蛍の光』の中を退出。私は十分むくわれた気持ちで去った」(9月25日)

     ◇

 あれから約四半世紀、日記の刊行が決まった。UNTACで報道対応にあたり、編集協力した石原直紀・立命館大特任教授はこう振り返る。「停戦監視や武装解除の支援に加えて、文民警察、難民帰還、復興支援などを含む画期的な複合型PKOだった。個別部門の達成度は様々だが、民主的選挙を経て政府をつくるという目的は達成した。国連PKOの成功例として評価できる」

 ■内向き平和主義ではだめ 明石康さん

 日記の習慣はなかったのですが、カンボジアの仕事を引き受けたとき、価値のある経験になるから備忘録をつけたほうがよいと助言する人がいたのです。

 仕事が終わると晩に書いていました。時間があるときはかなり長い記述になっています。昔のことで忘れていましたが、読み返すと、シアヌークさんとのやりとりなどかなり厳しい表現もありますが、もう故人になられましたし、歴史の資料として刊行しようと決断したのです。

 国連活動については、学者の書いた論文や本はありますが、交渉に携わった当事者が内部から書いたものは少ない。UNTACは、ゼロから国連がつくりあげたPKOです。政治、復興支援、人権など様々な要素が複雑に絡んだ国際政治の応用問題。それをどう解決に近づけたかという記録です。読み物として興味をもってもらえるかは自信がありませんが、研究者や外交に携わる人には役立つかもしれません。

 カンボジア和平から約25年がたちました。PKOは、武力を使って戦争に参加することとは違う、説得と対話に基づいて平和を一歩一歩築く気の遠くなる作業です。そのことについては、日本国民の理解もある程度進んできたのではないでしょうか。

 なぜそんな危ない所に行くのか、なぜ自分たちの子どもが行くのか。国民の中に割り切れない気持ちが残っているのはわかりますが、内向きの平和主義ではいけない。自分たちだけが安全になるだけではだめなのだと私は考えます。

     *

 あかし・やすし 国際文化会館理事長。1931年生まれ。1957年に初の日本人職員として国連本部入り。UNTACに続いて旧ユーゴ問題担当・国連事務総長特別代表。

 ■私と平成 編集委員・三浦俊章(60)

 むっとした熱帯の風。街を行き交う自転車タクシー。あのときの情景がよみがえった。25年前外務省担当だった私はカンボジアを訪れ、明石特別代表にも取材した。PKO日記を読むと、やはりという所と、そうだったのかという驚きがあった。機密に触れるなどの理由で公開を控えた部分もあるが、当事者による第一級の資料であることはまちがいない。

 印象深かったのは、PKOをめぐる意識のずれである。何としても自衛隊を出したい日本政府。憲法の平和主義との関係から懸念を覚える世論。いっぽう明石氏の視点は、あくまでも国連活動と日本の役割にあった。

 国際貢献のリスクをどう考えるかは、平成日本が直面したリアルな課題だった。だがその後イラクでも南スーダンでも、リスク論にはフタをかぶせ、自衛隊派遣の事実だけが積み上がった。PKOも住民保護のため武器使用を辞さないものに大きく変質している。カンボジアが提起した問いに、正面から向き合えていないのではないか。

 ◆キーワード

 <カンボジア内戦> カンボジアは1970年以降、国家元首シアヌークの追放、ポル・ポト派による虐殺、ベトナムの軍事介入と動乱が続いた。背景には、冷戦下の大国間の対立があった。冷戦終結後の91年、ようやく和平の道筋がつき、国連PKOに新国家樹立の準備が任された。

 ◇日記からの引用は、読みやすさを優先して原文を一部省略、表現を改めた箇所があります。日記は「カンボジアPKO日記」(岩波書店)として11月7日に刊行予定。
    −−「平成とは あの時:2 国連PKO派遣、舞台裏 編集委員・三浦俊章」、『朝日新聞』2017年10月31日(火)付。

        • -


(平成とは あの時:2)国連PKO派遣、舞台裏 編集委員・三浦俊章:朝日新聞デジタル