日記:日常生活と「政治」をどう近づけられるか


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日常生活と「政治」をどう近づけられるか
内田樹 政治的な意思表示にはいろんなレベルがある。もちろん投票行動もあるだろうけど、それ以外にも、デモをすることもあるし、僕みたいにものを書いて意見を述べることもある。学校で周りの人としゃべることもあるだろうし、いろんなかたちで政治が無数にあると思うんですね。SEALDs KANSAIは「いろんなやり方があるから、いろんなやり方をやってみましょう」という立場だと思うけれど、やり方が変われば、そこで掬い上げられてくる人々の意見や感情はそれぞれ違ってくるわけだから、できるだけ多くの人たちの多くの思い、多くの思想を掬い上げてゆけば、長期的、集団的には正しい判断が下る。
 SEALDsの運動の基本には、そういう人間の知性に対する根本的な信頼があると思うんですよ。無駄な議論を打ち切って、すぐに決めようと言う人たちは、長い時間をかけてことの理非を検証すれば、人間理性は正しい結論に至るということを本当は信じていないんだと思う。それは、激しい言葉を使って、論敵を論破しようとしたり、罵倒したりする人もそう。衆人環視のなかで人を「馬鹿野郎!」と罵ったり、完膚無きまでに論破しようとする人は、結局、聴衆の知性を信じていないわけです。「目の前でこてんぱんにやっつけて見せなければ、お前たちはどっちが正しいかわからないだろう?」と思っているから、ああいうことをする。聴衆の知性と判断力を信じていたら、ああいう話し方はしまっせん。もっと丁寧に、情理を尽くして語るでしょう。
 SEALDs KANSASIがやっている仕事、「困った、困った」と言いながら「あれをやってみよう、これをやってみよう」と次々に試みていることは、すごく迂遠に見えるかもしれないけど、長期的・集団的には人間は大きく判断を過たないという、人間の集合的な知性の働きに対する素朴な信頼が根本にあるような気がする。でも今の政権は、はっきり言って国民の知性に信頼を置いていないでしょう。情報を開示しないのも、情報を全部開示すると国民は「間違った推論をする」と思っているからだし、原発や震災の被害状況を明らかにしないのも「パニックになるから」と言う。要するに、「お前たちはまともな判断ができないから、オレたちが代わってことの是非について判断してやるから、黙っていろ」ということでしょう。国民も立法府も司法も、行政府以外の人たちの知性を信用していない。だから、代わりに考えてやる。代わりに決めてやるという。SEALDsが提出した延会の動議の「もうちょっと話しませんか。もうちょっと悩みませんか。もうちょっと困ってみませんか」の根本には、困っているうちに何とかなって、それなりの答えにたどり着くはずだ、という知性についての楽観主義があるような気がして、僕はそこにすごく共感するんです。
    −−内田樹×SEALDs「マイナス3とマイナス5だったら、マイナス3を選ぶ」、SEALDs『民主主義は止まらない』河出書房新社、2016年、143−145頁。

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