日記:閉ざされた社会


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 以下では、呪術的ないし部族的ないし集団主義的な社会のことを閉ざされた社会とも呼び、また諸個人が個人的決定に直面する社会を開かれた社会とも呼ぶことにしよう。
 閉ざされた社会は、その最善の形態ではまさしく一つの有機体になぞられよう。いわゆる有機体的ないし生物学的な国家論は、かなりの程度までこれに適用できる。閉ざされた社会はその成因が半生物学的なきずな−−親戚関係、共同生活、共通の労苦や危険や喜びや悩みを分け合うこと−−によって結ばれている半有機体的統一をなす点において獣群や部族に似ている。それはまだ具体的諸個人の具体的集団であり、相互の関わりは単に分業や商品交換といった抽象的な社会関係ばかりではなく、触覚、嗅覚、視覚のような具体的な身体的関係でもある。またそのような社会は奴隷制に基づく場合もあるが、奴隷の存在は必ずしも家畜化された動物の問題と根本的に異なる問題を生むとは限らない。こうして、開かれた社会の場合に有機体説をうまく適用することを不可能にするような諸側面はないのである。
 私が念頭に置いている側面とは、開かれた社会では多くの成員が社会的地位を向上させ他の成員の地位を奪おうとつとめるという事実と関連したものである。このことは、例えば階級闘争のような重要な社会的現象へつながるでもあろう。有機体の場合には階級闘争のようなものは何ら見られない。ときとして国家の成員に対応するものとされる有機体の細胞や組織はおそらく栄養を求めて争うかもしれないが、脚の部分が脳になろうとしたり、身体の他の部分が腹になろうとしたりするような内在的傾向などは存在しない。有機体には地位をめぐる成員間の争いという開かれた社会のもっとも重要な特徴の一つに対応するものは何もないのだから、いわゆる国家有機体説は誤った類比に基づいているのである。他方、閉ざされた社会はこのような諸傾向の多くを知らない。その諸制度はカースト制を含め極めて神聖−−タブー−である。ここでは有機体説の適用もそうまずくはない。それゆえ、われわれの社会に対して有機体説を適用しようとする大ていの試みが、部族制への復帰のための覆面形態での宣伝であることを見いだしても驚くべきことではない。
 開かれた社会はその有機体的性格の喪失の結果として、次第に私が「抽象社会」と呼びたいものになるであろう。それはかなりの程度まで、人間の具体的集団という性格、またこのような具体的諸集団から成る組織という性格を失うであろう。めったに理解されることのなかったこの論点は、誇張の方法によって説明できよう。われわれは、ひとびとがほとんど対面することのないような社会−−そこではすべての仕事が隔離された諸個人によって遂行され、彼らはタイプされた文章や電話で連絡し合い閉め切った自動車で歩き廻るような社会−−のことを想像できよう(人工授精を用いれば、繁殖さえも個人的要素なしに行えよう)。このような架空の社会は「完全に抽象的ないし非人格化された社会」と呼んでよいだろう。さて興味深い点は、われわれの現代社会が多くの側面において、このような完全に抽象的な社会に似ていることである。われわれは必ずしも一人で閉め切った車に乗っているわけではない(路上ですれ違う何千という歩行者と対面する)が、結果はそうした場合と極めて近いものである−−われわれは概して歩行者たちと個人的関係をもつことはない。同様に、労働組合員であることが単に組合員証の所持と見知らぬ書記への分担金納入を意味するにすぎないこともありえよう。現代社会では、親密な個人的接触を全然または極めてわずかしかもたず、名もなく孤独に、その結果として不幸に暮らしている人々が多数いる。というのも社会は抽象的なものになったが、人間の生物学的仕組みはあまり変わらなかったからである。人間は開かれた社会では満たすことのできない社会的欲求をもっているのである。
    −−カール・R・ポパー(内田詔夫・小河原誠訳)『開かれた社会とその敵 第一部プラトンの呪文』未來社、1980年、172−173頁。

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