日記:グローバルな市民精神は本当に人文学を必要としているのでしょうか?
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グローバルな市民精神は本当に人文学を必要としているのでしょうか? 世界市民は事実に基づく多くの知識を必要としています。なるほど、人文学的教育を受けていなくても、学生たちはそうした知識をえることができるかもしれません。たとえば、BJPが使用していたような教科書ーーただし不正確な事実を正確な事実に置きかえることは必要ですがーーで事実をひたすら吸収することによって、そして経済学の基礎的技術を学ぶことによって。しかし責任ある市民はもっと多くのことを必要とします。それは、歴史的証拠を評価する能力、経済原理を批判的に活用し考察する能力、社会正義についての説明を評価する能力、外国語を話す能力、世界の主要宗教の複雑さを理解する能力です。事実に関わる部分だけであれあ、私達が人文学と結びつけてきた技能や技術なしでも伝えられます。しかし単なる事実のカタログは、これを評価する能力や、証拠から物語がどのように構築されるかを理解する能力を伴わなければ、無知と同じぐらいひどいものになりかねないのです。こうした能力がなければ、生徒は政治家や文化的指導者が広める無知なステレオタイプと真実を、虚偽の主張と根拠のある主張を区別できないでしょうから。したがって世界史と経済的知見は、これが知的なグローバルな市民の養成に有用であるためには、人文学的かつ批判的なものでなくてはなりません。そして宗教や正義についての哲学理論とともに教えられなくてはなりません。そのときはじめて、世界史と経済的知見は公的な議論に有益な基礎を提供してくれるのです。そしてこうした公的な議論は、人類が直面している大きな諸問題を解決しようと私達が協力する差異に必要不可欠なものなのです。
ーーマーサ・C・ヌスバウム(小沢自然、小野正嗣訳)『経済成長がすべてか? デモクラシーが人文学を必要とする理由』岩波書店、2013年、122頁。
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