覚え書:「「すぐれた物語」気づいた夜 カズオ・イシグロさん、ノーベル賞記念講演」、『朝日新聞』2017年12月12日(火)付。


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「すぐれた物語」気づいた夜 カズオ・イシグロさん、ノーベル賞記念講演
2017年12月12日

写真・図版
スウェーデン・アカデミーで7日、記念講演するカズオ・イシグロさん=ロイター

 10日にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさんは、式典に先立ち7日にストックホルムで開かれた受賞の記念講演で、代表作である『日の名残(なご)り』と『わたしを離さないで』の創作秘話ともいえる「ある夜」の出来事を明らかにした。映画から転機を得、歌から学ぶ……日常生活から糧を得る、イシグロさんらしいエピソードに注目した。

 ■映画が転機に/歌声からもらう「そう、これだ」

 スウェーデン・アカデミーであった講演の題は「My Twentieth Century Evening − and Other Small Breakthroughs」。イシグロ作品を手がける翻訳家、土屋政雄さんに相談すると、「特急二十世紀を観(み)ながら思ったこと——そして壁を破ってくれた小さな事ども」と訳してくれた。

 「特急二十世紀」は、1934年の米国映画「Twentieth Century」の邦題。この映画を見た夜が、作家カズオ・イシグロの「ターニングポイントになった」という。

 2001年、ロンドンでのある夜。イシグロさんは妻と「特急二十世紀」を見始めた。テンポのよいコメディーで面白い登場人物なのに、のめり込めない。なぜだろうと考えた。「それは、その人物と他の登場人物との関係が、人間的つながりとして面白くないからではないか……」

 あれこれ考え、ひらめく。「すべてのすぐれた物語は、読者にとって重要と思える関係を——読者を衝(つ)き動かし、楽しませ、怒らせ、驚かす関係を——含んでいなければならない」

 そしてある方法にたどり着く。「あの夜以来、私は物語の組み立て方法を変えました。たとえば『わたしを離さないで』を書くとき、私はまず、中心となる三角関係から考えはじめ、次いで、そこから広がっていくはずのさまざまな関係を組み立てていきました」

 『わたしを離さないで』を読むとき、クローン技術で生まれた若者たちの過酷な状況に目を奪われる。だが、読み進めると特殊な環境は意識下に沈み、語り手と仲間たちの恋愛や、子どもと向き合う教師たちの苦悩が迫ってくる。普遍的で身近にも感じられる関係性が心につきささる。それこそが「すべてのすぐれた物語」の条件なのだろう。

 イシグロさんは、ロックスターを夢みる長髪の若者だった。講演会では「歌」とのエピソードも披露した。1988年のある夜。英国人執事が主人公の『日の名残り』を書き終えたものの、何か欠けていると思っていた時。米国のミュージシャン、トム・ウェイツのバラード「ルビーズ・アームズ」を聞いた(この場で歌ってみることも考えたと笑わせた)。タフガイを貫いてきた男の心が悲しみで崩れる歌だ。

 執事は感情に壁をつくり、自分自身を見ないし他人にも見せない人物にしようと無意識に決めていた。だが、ウェイツが独特のしわがれ声で「心が張り裂けそうだ」と歌う瞬間、「物語の終わりに近いどこかで、一瞬だけ(態度を)覆そう。その一瞬を慎重に決め、まとった鎧(よろい)に一筋のひび割れを起こさせよう」と決め直した。「私はこれまで、いくつもの場面で、歌手の歌声から重要な教訓を学んできました」「歌うときの人間の声は、底知れないほど複雑に絡み合った感情でも表現できるものです」

 影響を受けた歌手にボブ・ディランニーナ・シモンレイ・チャールズブルース・スプリングスティーンらを挙げた。「歌唱から何かを感じたとき、私は自分に『そう、これだ』と言います。『あの場面にこれを——これに近い何かを——取り込まねば……』と。それは、言葉では表現しきれない感情ですが、歌手の歌声にはちゃんとあって、私は目指すべき何かをもらったと感じます」

 すべてのすぐれた物語が読者に与える「そう、これだ」が、イシグロさんの小説にも確実に存在している。控えめなユーモアとアイロニーがスパイスのようにきいていて。

 (ストックホルム編集委員・吉村千彰)

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 講演の引用は土屋政雄さん訳。土屋さんは『日の名残り』『わたしを離さないで』『忘れられた巨人』などを翻訳しており、記念講演の全訳が早川書房から近く刊行される。
    −−「「すぐれた物語」気づいた夜 カズオ・イシグロさん、ノーベル賞記念講演」、『朝日新聞』2017年12月12日(火)付。

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