イエスが社会の差別システムを否定したということは、それにまつわるユダヤ教の聖別システムとその根源にあるエルサレム神殿体制への批判を内包しているということである





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 こうした使信(メッセージ)と熱狂的パトスを伴ったイエスの活動は、極めて大胆な言動を生み、社会観念の枷や桎梏を砕いて人に迫ったために、ガリラヤの民の大部分である貧民・没落階級の広範な支持を得た。それは、ヨハネを支持した人々と類似の社会層に何よりも好意的に支えられたということである。さらにイエスが社会の差別システムを否定したということは、それにまつわるユダヤ教の聖別システムとその根源にあるエルサレム神殿体制への批判を内包しているということである。ここに、かつてのヨハネに見られた反神殿体制の方向性がイエスにも再確認できることになる。
 さらには、イエスの自由な批判的言動は、一部はエリート階級にも食い込む支持を見出した可能性もある。そうした広範な支持者・同調者の中には、イエスを「メシア」的存在と理解し、生活や家族を放擲してまで彼と共に放浪の生活を送り、その宣教伝道の活動に参与する人々−−やがて「弟子たち」と言われる彼の同志たち−−も出て来た(ルカ九57以下など)。
    −−佐藤研『聖書時代 新約篇』岩波現代文庫、2003年、42−43頁。

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佐藤研先生(1948−)、サラッと書いているんだけど「イエスが社会の差別システムを否定したということは、それにまつわるユダヤ教の聖別システムとその根源にあるエルサレム神殿体制への批判を内包している」って点は案外と見逃しがちな盲点なんじゃないかと思う。
「使信(メッセージ)と熱狂的パトスを伴ったイエスの活動」が「広範な支持を得」たことはいうまでもないんだけど、そのメッセージは、差別や格差を含む現状の問題の奥にある人間の認識構造やそれが実体と化した「構造」そのものに目を向けよというひとつの促しなんだろうと思う。

たしかに、対処療法的アプローチやそれを支える善意の具現化は必要不可欠なんだろうけれども、それと同時に、そうした問題を背景からささえる構造的暴力……と表現してしまうと、それはそれでまた限定的になっちゃうんだろうけど……に対しても鋭敏である必要はあるんだろうなぁ。。。。









⇒ ココログ版 イエスが社会の差別システムを否定したということは、それにまつわるユダヤ教の聖別システムとその根源にあるエルサレム神殿体制への批判を内包しているということである: Essais d'herméneutique



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聖書時代史 新約篇 (岩波現代文庫)
佐藤 研
岩波書店
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覚え書:「今週の本棚:村上陽一郎・評 『神と国家の政治哲学』=マーク・リラ著」、『毎日新聞』2011年11月6日(日)付。







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今週の本棚:村上陽一郎・評 『神と国家の政治哲学』=マーク・リラ著
NTT出版・4410円
◇「政教分離」への現代的考察に誘う書

 二十一世紀日本に生きる私たちにとって、イスラム国家と言われる国々の、対外、対内政治において宗教の占める決定的な役割は、なかなか理解し難いものがあります。むろん、私たちにも、国家神道の途(みち)を歩んだ比較的近い歴史的な記憶はあります。しかし、維新以後の西欧化、近代化のなかで、国家やその政治に宗教が関わることの問題点は、意識され続けてきたことも確かでしょう。
しかし、私たちが、その意味でお手本にした西欧にあっても、宗教と国家政治の分離は、短い歴史しか持ち合わせていません。そして、西欧化・近代化が、国家政治と宗教との相互浸透という事態から、社会を解放することで、話の決着は着いた、と思ってきたのは、実は幻想に過ぎなかった、という視点で、現代を見直してみよう、という野心的な試みが本書だと言ってよいでしょう。
 もちろん著者は、西欧・近代の壮大な試みを否定するわけではない。それどころか、永年に亘るキリスト教神学の政治との結合の歴史に対する、重大な挑戦が、西欧・近代であった、ということを、あるいはそれが、人類史上まれな出来事であったという評価を、認めることにおいて、躊躇いはないのです。
 著者は、その根元をホッブズに求めているようです。中世的キリスト教神学の基礎はトマス哲学にあると思われますが、そのトマスは、「自然法」の根拠を、神の創造の秩序に求めました。例えば英語の「法」を示す<law>は、今で言う<lay>という動詞の過去分詞形つまり受動態です。能動者である神の手で「整えられた状態」それが、自然のなかでは法則、社会のなかでは法律、ということになります。しかし、著者が「近代ストア学派」と呼ぶ思想家たちは、こうした原点をいとも容易く乗り越えて、「神の法を括弧でくくり」、人間的な起源へと視点を移し替えた、というのが、著者の主張です。つまり、人が社会を構成する以上、「他の構成員に対する生まれながらの感覚」を持っている、というところに自然法の起源がある、という考え方が十六世紀後半には盛んになった、と述べています。その極点にホッブズがいることになります。
 著者によれば、ホッブズは、エピクロス主義者なのです。古代エピクロス主義者が、恐怖や心の混乱(それは、むしろ宗教によって増幅される)から人間を解放することに究極の快楽を見出したのに対して、そうした発想を「政治的目的」のために利用したのがホッブズだということになります。彼の目的は「キリスト教政治神学の伝統全体(彼の言葉では「暗黒の王国」)を攻撃し、破壊することにあった」と著者は言います。
 ホッブズによれば、その有名なテーゼ「万人の万人にたいする戦い」は、人間の本性に由来するのですが、それは、宗教によって解消されるどころか、むしろ、宗教は、そうした人間同士の間に生じる、欲望と喪失への恐怖を基にした争いの源泉でさえあると考えるべきではないか。宗教が引き起こした様々な「戦争」を見れば、それは明らかだ、そうホッブズは考えます。そうしたホッブズの思想の記述を、著者は、ロック以降、ルソー、ヒュームらその後の世俗化の流れを描くための出発点にします。もちろんそうした人々が、単純に宗教を否定したのではない。特に「宗教的現象」が人間の本性の一部に由来することは、色々な論者が認めている、と著者は言います。なかんずくカントは、「適正に改革されたキリスト教が人間の道徳的な改善に最も相応しい宗教である」ことを認めた、とさえ考え、そこからヘーゲルらの近現代思想へ橋渡しをするのです。
 こうした著者の主張は、ほとんど、判り易く述べられた西欧近代の哲学史であるとさえ言えましょう。それが判り易いのは、対象軸として西欧がどのように「政教分離」を果たし得たか、という戦いの筋が設定されているからです。
 しかし、本書が、単なるそうした哲学史の解説書でないのは、そうした歴史の延長点に、ナチズムがあったことを強く意識し、そこへ至る途を準備したものを詳細に描くことによって、政治と宗教との関わりへの現代的な考察に、あらためて読者を誘う強い力を備えた書物だからだと思います。
 なお、原著のタイトルは<The Stillborn God>つまり「死して生まれた神」という不思議な意味合いを持つものです。訳者は、「死産に終わった虚構の神」という解釈を与えておられます。ナチズムに典型を見るように、政治的言説のなかにも、虚構の神を偶像視し、メシア主義的なファナティシズムに陥る危険が常に存在していることへの、警告の意味があると理解すればよいのでしょうか。
 著者は、アメリカ生まれ、アメリカで教育を受け、現在はコロンビア大学の思想史の教授で、『ニューヨーク・タイムズ』への常連の寄稿者としても知られている由です。(鈴木佳秀訳)
    −−「今週の本棚:村上陽一郎・評 『神と国家の政治哲学』=マーク・リラ著」、『毎日新聞』2011年11月6日(日)付。

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⇒ ココログ版 覚え書:「今週の本棚:村上陽一郎・評 『神と国家の政治哲学』=マーク・リラ著」、『毎日新聞』2011年11月6日(日)付。: Essais d'herméneutique



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