日記:「こんな人に負けない」とか一国の首相が逆ギレするのがそもそも幼稚でその器にないという話。





安倍首相が秋葉原の都議選応援演説で「安倍やめろ」コール殺到に逆ギレ! 国民に向かって「こんな人たちに負けない」|LITERA/リテラ

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覚え書:「書評:暗い時代の人々 森まゆみ 著」、『東京新聞』2017年06月04日(日)付。

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暗い時代の人々 森まゆみ 著

2017年6月4日

◆声を上げる生き方に倣う
[評者]栗原康=アナキズム研究家
 昔、あき地がたくさんあった。なんにも使われていないその土地を、子どもたちが遊び場に変える。整備された公園よりも、石ころやビンが転がっているあき地のほうがいい。エロ本をもちこんではしゃいだり、家を抜けだして花火をする。子どもたちの自由奔放さが全開になる。それがあき地だ。
 本書で、著者が伝えたいのもそういうことだ。バブルのころ、やれビルを建てろ、再開発だとあおって、地価をあげてボロもうけ。それであき地がなくなって、やがてバブルもはじけて、使わない土地が増えたとおもったら、こんどはオリンピックだ。国民一丸となって、街をきれいに、おしゃれにしよう。地価をあげろ、文化的な街づくり。芸術家や建築家、研究者が動員される。その分、街をきたなくすると見られがちなホームレスや喫煙者、ゴロツキは排除されるが、しかたないの一言でおしきられる。みんなのために、仕事のために、空気をよめよ、非国民と。そうしてなんにもいえなくなる。
 本書は、そんな暗い時代に少しでも光をみいだそうと、一九三〇年代、四〇年代の人びとをとりあげる。権力批判をすれば、食いぶちをうしなう、そんな時代。さらには投獄、虐殺、暗殺だ。しかしそれでも戦争協力をせず、軍部ふざけんなとか、天皇制はいらないとか声をあげたひとはいた。斎藤隆夫山川菊栄、山本宣治、竹久夢二、九津見房子、斎藤雷太郎、立野正一、古在由重、西村伊作。それこそ政治家から社会主義者、教員、画家、建築家、俳優まで、ど根性で抵抗だ。
 先人たちの声がきこえてくる。戦争動員を拒否しよう。再開発はもうたくさんだ。使わなくなった土地は放っておけばいいのである。大人たちが子どもにかえっていく。暮らせる、遊べる、生きられる。精神のあき地をとりもどせ。あたり前のことをちゃんといおう。戦争はいやだ、排除もいやだ。わがまま上等。くたばれ、オリンピック。ちょっといまから仕事やめてくる。
亜紀書房・1836円)
<もり・まゆみ> 1954年生まれ。作家。著書『昭和文芸史』『千駄木漱石』など。
◆もう1冊 
 ハンナ・アレント著『暗い時代の人々』(阿部齊訳、ちくま学芸文庫)。ブレヒトなど、全体主義の時代に抵抗して生きた思想家列伝。
    −−「書評:暗い時代の人々 森まゆみ 著」、『東京新聞』2017年06月04日(日)付。

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暗い時代の人々
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森 まゆみ
亜紀書房
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覚え書:「【書く人】拳に込めたアリの思い『ファイト』 作家・佐藤賢一さん(49)」、『東京新聞』2017年06月11日(日)付。

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【書く人】

拳に込めたアリの思い『ファイト』 作家・佐藤賢一さん(49)

2017年6月11日
 
 一読して驚いた人も多いのではないか。『小説フランス革命』など、西洋を舞台にした歴史小説の書き手として知られる著者が、最新作では伝説的ボクサーのモハメド・アリを題材に選んだ。それもキャリアを代表する四試合をアリの一人称で再現した、真っ向勝負の拳闘小説だ。
 大のボクシング好きで、自身も若いころジムに通った。当時から「世界一のボクサー」として敬意を抱いていたという。「アリは時代を先取りしたトップランナー。生涯闘い続けた差別や戦争などの問題は現代も残る。米国の一つの時代を代表する個性として、ずっと書きたいと思っていた」
 一九六〇年代、アリはイスラム教徒として黒人差別にあらがい、ベトナム戦争への徴兵を拒否して王座を剥奪されるなど、社会問題にもなった。構想当初は、その影響を中心に描く「歴史物」になる予定だった。しかし、アリの試合を見返すうち、「やはり一番すごいのは彼のファイト。それを文字で表現しよう」と思い直した。
 「俺は誰よりも偉大だ」と叫んだソニー・リストン戦。死闘の末に敗れたジョー・フレージャー戦。「キンシャサの奇跡」と呼ばれるジョージ・フォアマン戦。最後のタイトル戦となったラリー・ホームズ戦。それぞれの闘いの描写から、アリの生き方が浮かび上がる。口の悪い王者として有名だが、試合中に浴びせる暴言の数々も生々しい。「決して神格化せず、その時その時の彼の心情に寄り添いたかった。だから作られた自伝より、対戦相手がインタビューで暴露した裏話の方が参考になった」
 くしくも雑誌連載中の昨年六月、アリの訃報が届いた。その半年後、人種や宗教の差別を助長するようなトランプ政権が誕生したことに、何か符合めいたものも感じる。「アリはその存在自体が反差別、反戦の象徴だった。いなくなった途端、時代まで振り出しに戻ってしまったような感じがして、皮肉でならない」
 シンプルなタイトルには「ただのボクシングの試合を超えた、エモーショナルでドラマのある闘い」との意を込めた。「まずは純粋に、アリのファイトに興奮してほしい。その後で、なぜ彼がこういう生き方をしなければならなかったか、その状況は決して過去のものではないという部分も見つめてほしい」
 中央公論新社・一八三六円。 (樋口薫)
    −−「【書く人】拳に込めたアリの思い『ファイト』 作家・佐藤賢一さん(49)」、『東京新聞』2017年06月11日(日)付。

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ファイト
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覚え書:「【東京エンタメ堂書店】あすなろ書房・山浦真一編集長 明日はヒノキになろう」、『東京新聞』2017年06月19日(月)付。

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【東京エンタメ堂書店】

あすなろ書房・山浦真一編集長 明日はヒノキになろう

2017年6月19日


 弊社のロングセラーは「木」とともにある。最初のスマッシュヒット『木を植えた男』は、南仏の荒地に一人黙々と木を植え続け、森を蘇(よみがえ)らせた男を描いた感動的な物語絵本。僕はこの本をつくったことで認められ、編集部を任されるようになった。
 その十年後に出版した『いろいろ1ねん』は、一本の木とふたごの子ネズミの一年間を描いた絵本。巨匠レオ・レオーニ後期の傑作だ。これは、谷川俊太郎さんに初めて翻訳をお願いした記念すべき一冊。
 そしてその十年後。他社から刊行されていたシルヴァスタインの『おおきな木』の日本語版権が空き、弊社に再刊の機会がめぐってきた。翻訳者の遺族の許諾が得られず、村上春樹さんに新たに翻訳してもらった。
 おおきな木は、少年に惜しみなくすべてを与える。読む人によって、感想はわかれる。木の無償の愛に、自分の人生を重ねるシニア世代からの感想が多い。
 発売以来、七年が経(た)つが、毎年五万部近くを重版し、あすなろ増刷記録を更新中。
 そしてもう一冊。公開中の映画『怪物はささやく』の原作で、イチイの木が登場する本。これは二〇一一年、東日本大震災直後のボローニャブックフェアで紹介され、即、出版を決めた本。イギリスの出版社ウォーカーブックスのおなじみの担当キャロラインが、「人生で一番感動した本なの。最高傑作よ!」と、いつになく熱い調子で語るのに驚き、そして何より迫力あふれるイラストに圧倒されたのが、決め手となった。
 先日、ひと足早く映画を観(み)た。僕は映画では泣けないタチだけど、まわりでは、人がいっぱい泣いてたよ。
 ところで、弊社の名前はあすなろ書房。「あすなろ」は、ヒノキ科の常緑高木。創業者が、「明日はヒノキになろう」の意をこめて名づけた。意識して木の本をつくってきたわけではないが、木の本ばかりヒットするのは、もしかしたら宿命だったのかもしれない。
 『木を植えた男』から三十年。当時、会社の経営は傾いていて、負の遺産ばかり引き継いだような気がしていた。でも、先代を亡くしてから、本当は数字にならない「よきもの」をたくさん伝授されていたのを、実感するようになった。がむしゃらで、無謀な若人だった僕に、さまざまな知恵を授けてくださった先輩たちに、今はお礼をいいたい。
◇お薦めの3冊

◆身近な人、亡くしても
 <1>エリシャ・クーパー作、椎名かおる訳『しろさんとちびねこ』(1404円) 身近な人が亡くなったら、残された者は悲しい。でも、その人が教えてくれた大切なことは、知らぬ間に自分の一部になっていて、それはきっと次の世代にも受け継がれてゆく。愛らしい絵の奥に「生きること」の真理が見える、深い深い絵本。今の僕の心境は、年齢のせいばかりでなく、この本との出会いのおかげかも。

◆まぶしい!夢の第一歩
 <2>大竹英洋著『そして、ぼくは旅に出た。』(2052円) 憧れの写真家に会うため北米ノースウッズへ! 自然写真家への第一歩となった旅を振り返るノンフィクション。誠実さあふれる文章が、僕にはまぶしい! 人生の岐路に立ち、迷っている人に特にお薦め。きっと道が見えてくるよ。

◆何歳でも遅くない
 <3>オリバー・ストーン&ピーター・カズニック著、S・C・バートレッティ編著、鳥見真生訳『語られなかったアメリカ史(1)(2)』(各1620円) 歴史に「もし」はタブーだが、トルーマンではなくヘンリー・ウォレスが大統領になっていたら、原爆は投下されなかった!? ベトナム帰還兵である映画監督O・ストーンならではの歴史書。学校の勉強は嫌いだったが、今は学ぶのが楽しい。だいぶ遅咲きだけど…。
◆筆者の横顔
 <やまうら・しんいち> 本当はカメラマンになりたかった。大学卒業後、著名ファッションフォトグラファー(特に名を秘す)に弟子入りし、アシスタントとして働くも、あまりのダメダメぶりに毎日叱られ、挫折。撮るのはやめたが、今も写真は好き。59歳。
    −−「【東京エンタメ堂書店】あすなろ書房・山浦真一編集長 明日はヒノキになろう」、『東京新聞』2017年06月19日(月)付。

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しろさんとちびねこ
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そして、ぼくは旅に出た。: はじまりの森 ノースウッズ
大竹 英洋
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1世界の武器商人アメリカ誕生 (オリバー・ストーンの告発 語られなかったアメリカ史)
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2なぜ原爆は投下されたのか? (オリバー・ストーンの告発 語られなかったアメリカ史)
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覚え書:「戦後の原点 東アジアと欧州 歴史の闇、向き合い続け」、『』2017年03月19日(日)付。

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戦後の原点 東アジアと欧州 歴史の闇、向き合い続け
2017年3月19日

写真・図版
台湾・高雄市で開かれた台湾人日本兵らを追悼する式典。蔡英文総統が初めて参列した=2016年11月5日、「自由時報」提供

 1947年の春、新憲法施行を5月に控え、日本は再出発を祝う熱気に満ちていました。しかし、外では米ソ冷戦が始まっています。ドイツは分割され、中国では国民党と共産党の内戦が激化。朝鮮半島は南北に分かれ、やがて来る朝鮮戦争破局へと踏み出していました。東アジアも欧州も新たな混沌(こんとん)のふちにあったのです。その後70年、多くの苦難が待ち構えていました。

 ■日本軍従軍者も、公式に追悼 台湾

 台湾は日本が初めて手にし、50年統治した植民地だった。なのに、敗戦で手放した後、この地で起きたことに、日本はどれだけ関心を向けてきただろう。

 台北市内の「二二八和平公園」に2月末、車いすのお年寄りや、花を手にした女性ら市民が集まった。

 この日は、戦後の台湾を統治した国民党政権が民衆を弾圧し、数万人が犠牲となった1947年の「二・二八事件」の記念日。追悼式典では、被害者の遺族らに、蔡英文(ツァイインウェン)総統から「名誉回復証」が手渡された。

 台湾社会には、国民党と共に中国大陸から渡ってきた「外省人」と呼ばれる人々と、以前から暮らす「本省人」と呼ばれる人々との間で確執が残る。昨年の総統選で国民党から2度目の政権奪取を果たした民進党は、本省人を主な支持基盤とする政党だ。蔡は国民党独裁時代に顧みられなかった歴史に光を当て、和解をめざす試みを続けている。

 昨年11月、南部・高雄市で開かれた式典に、総統として初めて参列したのも、その一つだった。日本の植民地時代、日本兵として第2次大戦に臨み、犠牲となった台湾人兵士らを追悼する集まりで、元々は生還した老兵や遺族らが細々と続けてきた会だ。

 「いらっしゃるのを、70年以上待っていました」

 あいさつに立った廖淑霞(89)は、付き添いの女性に支えられながら、総統に呼びかけた。

 大戦中、日本は中国大陸で国民党政権と戦った。台湾人日本兵は国民党側からみれば「敵」となる。戦後は台湾の公式の歴史から排除され、追悼や補償の対象外になってきた。

 台湾に生まれ、女学校で日本語教育を受けた廖は当時、看護師だった。44年、上海にあった日本陸軍の病院に配属された。前線から次々と送られてくる傷病兵たち。空襲のときは小柄な廖が結核患者を背負って防空壕(ごう)へ走った。同僚だった朝鮮半島出身の少女が爆撃で亡くなった。

 廖が経験を語り始めたのは、台湾で民主化が進む90年代になってからだ。「日本軍に協力したなんて、迫害が怖くて言えなかった」

 式典に参列した元軍人軍属は12人。最高齢の楊馥成(95)は陸軍補給部隊で勤務した。戦後、国民党政権から逃れ、日本に密航しようとして投獄された。

 林余立(90)は海兵団に入った年に終戦を迎えた。だが、次は国民党軍に動員され、中国大陸に送られる。日本が「戦後」を迎える一方、大陸では国民党と共産党の内戦が再開していた。共産党軍の捕虜となり、更に朝鮮戦争に送り込まれた台湾人もいる。

 式典会場となった高雄市の海辺の公園には、老兵らが運営する記念館がある。壁には同じ顔をした異なる軍服姿の3人の若者が描かれ、海を見つめる。時代に振り回され、ときに日本軍で、国民党軍で、共産党軍で戦った全ての台湾人を悼む思いをこめた。

 式典で蔡は語った。

 「高雄は台湾の兵士たちが出発した港の一つです。彼らを、私たちの歴史に、台湾人の記憶に迎え入れましょう」

 ただし、台湾側の視点から歴史を捉え直す試みは政治性も帯びており、日本の侵略に抵抗した大陸側の歴史を重視する国民党に加えて、中国からの反発もある。

 当時、日本軍に動員された台湾人の軍人軍属は20万人を超え、3万人以上が犠牲になった。日本政府は、日本国籍を喪失していることを理由に、台湾人日本兵に恩給を払わず、日本人並みの補償もしていない。

 ■文化や福祉、国境超える挑戦 韓国

 1947年5月2日。日本国憲法が施行される前日に、朝鮮人と台湾人は日本人と切り離された。

 天皇による勅令「外国人登録令」で「当分の間、外国人とみなす」と定められた。閣議資料には「五月二日以前に公布して頂きたい」との法制局のメモが貼られた。だが、この「駆け込み勅令」で分離された人々の中に、日本との接点を持ち続けた人もいた。

 後に宗教政治学者・評論家となる池明観(チミョングァン)(92)はそのころ、すでに南北分断状態にあった朝鮮半島の北側から南へ密航していた。中国国境近くで生まれ、日本式教育を受けた。終戦後に南の方が豊かではないかと思って脱出したが、貧しさは変わらなかった。

 ソウル大学を出て雑誌を主宰。65年、日韓国交正常化の調印後に初めて日本を訪れる。新幹線から見た美しい川や整った田園に「自分は統治者として以外の日本を何も知らない」と思い、70年代から東京の大学に籍を置いた。雑誌「世界」に「T・K生」の筆名で韓国軍事政権の実情を告発し始めた73年、民主活動家の金大中(キムデジュン)が東京で拉致された。「言論をてこに日米を動かし民主化を進めたい」という一心で寄稿を続けた。

 四半世紀後、金大中が大統領となる。池は懐刀として、日本の映画や歌謡曲、放送など韓国で禁止されていた政策の転換を担った。「今度は文化で侵略されるのか」という声を押し切り全面開放へ道筋をつける。「世界が認めた文化を韓国だけが拒むのは理屈に合わない」と。まず98年秋、国際映画祭の受賞作や日韓共同制作映画から。輸入解禁第1号は日韓合作の「愛の黙示録」だった。

 「黙示録」は、韓国全羅南道の木浦(モッポ)で戦前から孤児院を営んだ田内千鶴子の生涯を描く。朝鮮総督府に赴任した父と7歳から朝鮮で暮らし、孤児を連れた朝鮮人男性と結婚した。戦後も帰国せず68年、56歳の誕生日に死去した時、育てた孤児は3千人を数えていた。

 映画の原作者でもある長男の尹基(ユンギ)(74)によると、完成した95年当時、韓国当局に上映を掛け合ったが「日本文化はだめ」の一点張り。「ほぼ全編韓国語で監督も韓国人なのに何が問題なのか」と聞いても無駄だった。その後、政策の急転回で許可が下りた。

 尹は今も木浦で児童養護施設を続けながら、日本でも「故郷の家」という老人福祉施設を次々とつくっている。昨年11月には東京で5カ所目が開所した。国籍を問わず受け入れるが、在日韓国人が多い。食事にはキムチと梅干しが欠かさず出る。千鶴子から最後に聞いた言葉が「梅干しが食べたい」だったからだ。

 母も故郷の味が懐かしかったのだろう。後に在日の人の中にも故郷に帰れない人が多いことを知り、孤独に過ごさずに済む場を提供しようと決めた。「黙示録」で千鶴子と尹を知る人も増え、建設費用の寄付に弾みもついた。

 父母の結婚時に父が日本国籍になり、尹も日本籍。朝鮮で生まれ育ったため、母語は韓国語だ。「福祉という、終わりもなく国籍も関係ない文化に挑戦し続けたい」と尹は言う。

 韓国の外から民主化を促し、文化交流を進めた池は今、日韓、南北朝鮮だけでなくアジア中で関係が悪化していることを悲しく思う。半面、「これからは政府の力に頼らない市民連帯の時代になる」とも言う。「歴史は必ず進化する。これは決して空虚な希望ではない」

 ■かつてはタブー、「被害」語る ドイツ

 戦後のドイツの歩みは、戦勝国英米ソ連による国土の分断で始まる。戦後処理の枠組みであるポツダム協定でドイツとポーランドとの国境は西に250キロ移動し、国土は大幅に縮小した。

 1947年、旧東部領からのドイツ系住民の移動が続いていた。

 「ベルリンの難民収容所にいました。服はボロボロ、シラミだらけ。この生活はいつ終わるのかと」

 旧ドイツ領ポーゼン(現ポーランドポズナニ)に生まれ育ったドイツ人のローゼマリー・ツィトリッヒ(80)はそう振り返る。8歳で敗戦を迎え、家畜を運ぶトラックでベルリンに。その後も各地を転々とした。強制移住者たちの入植地北西部エスペルカンプにようやくたどり着いた時には23歳になっていた。

 大戦末期のソ連軍の侵攻や、敗戦による国境線の引き直しで、ツィトリッヒのような強制移住民は約1400万人に上った。暴行や略奪そして強姦(ごうかん)と道中は凄惨(せいさん)を極めた。200万人が命を落としたとも言われ、戦後ドイツ最大の悲劇と語られる。

 「加害国」だったドイツは、20世紀が終わる2000年ごろから、被害者としての側面を語り始める。大きな波紋を生んだのが、旧東部領などからの移住民らの団体「被追放民同盟」のエリカ・シュタインバッハ連邦議会議員(当時)による「追放に反対するセンター」の建設運動だった。ドイツ人の被害を伝える写真などを展示し「被害の歴史も記憶するべきだ」とする運動は両国間のタブーを破ったと語られた。ポーランドは「ドイツに被害を語る資格はない」と反発した。

 ただ今やこの問題は両国で大きな関心を呼ばない。

 「ドイツが受けた被害の記憶が最も重要です。でも同時に欧州で起きた数ある悲劇の一つにすぎない」

 ドイツ連邦政府が設立した財団「逃亡・追放・和解」理事長のグンドラ・バベンダムはそう話す。同財団は来年、強制移住をテーマにした資料館をベルリン中心部につくる。財団設立から約10年を要した。ポーランドの歴史家も含めた議論の結論は、「欧州という文脈」の強調だ。それにより、国と国が立場の違いを超え、地域の一員として向き合える。ドイツ人の強制移住を、第1次大戦のオスマントルコでのアルメニア人の追放、同大戦後のギリシャ・トルコ間の住民の交換などと並べて理解しようとした。

 ポーランド側は15年に愛国主義的な色彩が強い保守政党が政権に返り咲き、ドイツに強硬な姿勢を示すようになった。それでも、矛先が「歴史」に向くことは少ない。

 両国の歴史家たちは昨年夏、共同で「欧州史」の教科書も刊行した。今は古代・中世史だが、現代まで定期的に発行する予定で「強制移住」も題材になる。

 「あの悲劇の解釈について、両国の合意を得るのは今なお難しい」と語るのは、ドイツでの歴史教科書研究の拠点「ゲオルク・エッカート研究所」所長のエックハルト・フックス。でも、と続けた。「戦後直後と今の2国の関係は全く違うという合意はすでにできている」。乗り越えがたい加害・被害の関係に、欧州の一員という新たな文脈が加わっている。

 ■植民地支配の直視、ようやく フランス

 第2次大戦末期に連合国に解放されたことで「戦勝国」に仲間入りしたフランスは戦後、特異な道を歩んだ。戦争で傷んだ経済と国家威信の回復のため、植民地支配の再強化に乗り出したのだ。だが、世界で燃え上がった民族自決の機運とぶつかり、そのことがフランスに深い傷を残した。

 北アフリカの仏領アルジェリアでは、反乱と鎮圧が繰り返され、テロの応酬が続いた。暗い歴史を象徴するのが、支配の末端を担わされた「アルキ」と呼ばれるアルジェリア人補充兵とその家族がたどった道である。

 彼らの苦難を記す場所が南仏リブサルトにある。早春のピレネー山脈から肌を刺す風が吹き抜ける。朽ちたバラックが今も点在する。半地下の建物の玄関には「アンデジラブル(好ましからざる者たち)」の文字。この地に閉じ込められていたアルキの歴史を残す記念館だ。

 パリ在住のファティマ・ベスナシ(62)は少女時代をこの収容所で過ごした。「窓にガラスがない部屋で四つの寝台に8人が身を寄せ合って寝ました」

 アルジェリアは、独立戦争の末、1962年に独立した。80万人以上いた欧州系入植者はフランスへの引き揚げが認められた。

 だが、仏統治時代に農村部の治安維持を担わされ、独立戦争では仏軍についたイスラム教徒の補充兵は仏国籍を奪われ、武器も回収された。彼らアルキは、同胞であるアルジェリア人の怒りの標的となり、数万人が殺された。ベスナシの祖父もその一人だ。「フランスへの忠誠心で補充兵になった者はわずか。祖父は部族長として家族や村人を守るために参加したのです」

 10万人以上のアルキが仏本土に逃げ渡った。住居などがあっせんされた欧州系とは違い、収容所に隔離された。ベスナシは15年間、収容所を転々とした。

 90年代以降、フランスでは「過去」の問い直しが始まる。ナチス傀儡(かいらい)政権だったとして責任を回避してきたユダヤ人迫害について仏政府は95年、国家責任を認めた。だが、植民地支配の直視は遅れた。アルキについて「彼らを(いったん)見捨て、人道的ではない手法で受け入れた」という表現で、オランド大統領が初めてフランスの国家責任を認めたのは昨年9月だ。

 歴史家のブノワ・ファレーズは「文明を持ち込んだと美化する見方に加え、フランスが人種差別や拷問など非人道行為に手を染めた事実から目をそむけたい感情もあった」と語る。

 テロが相次ぎ、反移民感情が強まるフランスで、「過去」は敏感な問題であり続ける。

 2015年に開館したリブサルトの記念館は、アルキ以前にこの地で収容されていたスペイン難民、ユダヤ人、ロマ人ら時代ごとの「好ましからざる者たち」も、あわせて紹介している。

 「それぞれの記憶を主張しあうのではなく、財産として共有する記念館でありたい」。支配人のフランソワーズ・ルーはそう話す。

 ■記憶と経験、人類共通の遺産に 編集委員・三浦俊章

 「過去は死んでいない。過ぎ去ってさえいない」。10年以上前、東京裁判を研究する米歴史家リチャード・マイニアに教わった言葉です。それは、米国のノーベル賞作家ウィリアム・フォークナーの芝居のせりふでした。人種差別という重い歴史を背負った米南部出身のフォークナーらしい、人間存在の深みに触れる言葉ではないでしょうか。

 現在、世界中で、歴史問題が噴き出しています。過去の記憶が、狭い愛国心をあおるために使われたり、異なる民族や宗教への敵意をかき立てるために援用されたりもします。こういう騒ぎはもういいかげんにしてほしい、私たちは、静かに自分たちの来し方を振り返りたいだけなのだと、ぼやきたくなります。

 しかし、歴史学歴史教育そのものが、近代国家の形成と密接につながりながら発展してきたことを考えると、国家と歴史との関係は一筋縄ではいきません。グローバリゼーションが叫ばれる中、かえって、心のよりどころとして、国家やナショナリズムが強化されている面もあります。

 2015年の企画「戦後70年」に引き続き、16年春からは企画「戦後の原点」を掲載してきました。容易に過ぎ去らない過去に辛抱強く向き合うためです。

 最終回の今回、歴史の傷に苦しむ人々の中に、自らの経験を国家の枠に閉じ込めることなく、人類共通の悲劇や問題として位置づける人たちがいることを紹介しました。今の世界を覆うナショナリズムポピュリズムの暗雲の下で、小さな試みかもしれません。しかし、人類が不毛な争いをやめ、共存し続けるため、絶やしてはいけない営みがある。これからの歴史報道でも、そんな視点を生かし続けるつもりです。

 ◆本文は敬称略。三浦のほかに市川速水、沢村亙、高久潤、西本秀、藤原秀人が担当しました。「戦後の原点」は今回で終わります。
    −−「戦後の原点 東アジアと欧州 歴史の闇、向き合い続け」、『』2017年03月19日(日)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12849046.html



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