覚え書:「憲法を考える 「全体の奉仕者」どこへ 政治学者・牧原出さん」、『朝日新聞』2017年07月25日(火)付。

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憲法を考える 「全体の奉仕者」どこへ 政治学者・牧原出さん
2017年7月25日


牧原出さん=早坂元興撮影

 役人の政治家への過剰な忖度(そんたく)。資料の消滅。「総理のご意向」との圧力。憲法が言う「全体の奉仕者」である公務員はどこにいったのか。安倍政権をめぐる様々な問題で官僚のあり方が議論を呼んでいる。官僚を国民の手に取り戻すにはどうしたらいいか、日本の「政と官」の関係について聞いた。

 ――かつて旧大蔵省に代表される官僚支配の弊害が叫ばれ、その結果政治主導が進んだはずですが、これほど問題が噴出すると、政治主導が誤りだったということになりかねません。

 「今は行政の頂点には首相、官邸がいて、そこで実質的に決定しているという政治主導が基軸になっています。官僚の振り付けはあっても、官邸からの意思が強く各省庁に及ぶ仕組みになっている。しかし、この政治主導に対して、官僚が完全服従しているかというと違います。それが、文部科学省と『総理の意向』をくんだとされる内閣府のやりとりにみられる情報のリーク(漏洩〈ろうえい〉)につながったと思います」

 「リークは政治主導の下で政官の緊張が高まったときには、まま見られる現象です。英国のブレア政権が各省庁に参与などとして政治家を送り込んで政治主導を強めようとした際、政権の失態に関するリークが相次ぎました。政治はリークを止めることはできません。放っておくと、隠しても隠しても次々と情報が出て、政権の統治力が溶解してしまいます」

 「政治主導の利点は、トップと少数のスタッフ、側近の官僚で速戦即決できることです。しかし、余程意識しないかぎり、様々な経緯を踏まえ、利害関係者、国民の納得を包含した多獲性には欠けてしまいます。その結果、行政がゆがむのです。ゆがみに対抗する手段がリークです。これは文科省だけではない。いろんな省庁でも同様ですから、官僚のリークにメディアが乗ることが常態化すれば、政権の安定が損なわれていくわけです」

 「安倍政権は、官僚側が不満を持っても、強い命令や指示で全部押さえつけてきましたが、もはや限界です。ゆがみで傷ついた政官の信頼関係を回復させるきっかけが必要ですが、現時点では見当たらない。これは大きな問題です」

 ――英国では、政官の不信感をどうやって克服したのでしょう。

 「最終的には官僚のトップに当たる人物と首相が話し合って、共同で記者会見するなど異例な形を取って『手打ち』をしました。併せて大臣やスペシャルアドバイザーという参与たちの行動規範についての検討が第三者機関によって行われ、政官の境界、互いの矩(のり)を明確にさせようとしてきました」

    *

 ――日本国憲法の15条は「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とあります。官邸の指揮、命令だけに従うのであれば、同じ15条の「公務員を選定し、及びこれを罷免(ひめん)することは、国民固有の権利である」を具体化して、問題のある官僚の罷免を求めたくなります。

 「任命権者以外からの罷免は難しいでしょうし、不毛です。大切なのは公務員が何に奉仕するかということを明確化することです。かつての官僚支配時代、彼らの考え方は、戦前の官吏の延長線上にあって、『自分たちが国を率いているぞ』という感覚が色濃く残った『国益奉仕者』でした。これが政治主導となって、『時の政府の奉仕者』になりました。このとき、『時の政府は国民全体か』という深刻な問いが官僚に突きつけられたのです。しかし、いまだ、この問いは解かれてはいないのでしょう。如実に示すのが文書の取り扱いです。今の政権も役所も、問題となった文書が『ない』と言っています。でも、別の内閣になって、前政権の問題を洗いざらい調査し始めれば、なかったものも出さざるを得なくなる。いま『ない』と言っていた人たちが責任を追及されることになるんです」

 「官僚には時の政府と共倒れになっていいのか、という自覚が必要です。前川喜平前文科事務次官が言った『面従腹背』の意味が生きてくる。様々な要求を出してくる政権と相対しながら、国民の奉仕者、全体の奉仕者のあり方を探っていく段階に来ていると思います。英国では官僚の倫理標準を提言したノーラン委員会が官僚が持つべき魂を示しました。無私、高潔、客観性、責任、公開性、誠実、リーダーシップの七つです。ごくごく当たり前の価値観のように見えますが、全体の奉仕者の目指す目標とは何かを実際の言葉にして議論していくことが重要です」

    *

 ――日本の政治と公務員との関係の現状はどうでしょうか。

 「官僚主導でやってきた行政が本格的に転換したのは2009年に民主党政権が発足して脱官僚依存を唱えた時点からです。民主党政権は政治主導を制度化しないままに自民党政権に代わり、4年間、政治主導として進めてきたことの限界が出ています。安倍政権になって経済、外交、内政と課題は確実に増えている。しかし政策形成は限界にぶつかっている。規制緩和にしても、多角的に問題の所在を認識、分析しないまま、スピード感だとか、岩盤規制の突破だといって短絡的に考えられています。十分に練られた政策とはいえず、思いつきに近いものです」

 「中曽根政権は国鉄民営化などの政策目標を掲げ、実現に向けてはいくつも審議会を立ち上げ、十分な国民的議論を経て、最後に首相が決断しました。小泉改革も同様な手法がとられました。長期政権ならではの覚悟と手法を駆使すべき問題を前に、安倍政権は短期政権のように性急に振る舞っています。重要な政策課題についての国会審議も数カ月だけで、しかも論議が深まらぬまま通してしまい、熟度の低い政策形成を繰り返しています」

 「政治主導をする政権チームが臨界点に来ているのでしょう。従来は政権4年にもなれば、中心メンバーが1回か2回か交代して新陣容に再編成されてきました。いまは交代がなく、くたびれて認識が硬直化しています。加計を巡る文科省の文書を菅官房長官が『怪文書だ』と切って捨てましたが、疲れで柔軟に適応できなくなっているように見えます」

 ――政治主導の象徴的存在が内閣人事局ではないでしょうか。現在は政治家の萩生田光一内閣官房副長官がトップを務めています。

 「政治が官僚に一定の制裁を与えられるとしても、実際に行使するかどうかは別です。通常、省庁の次官や局長級になる官僚の候補は複数います。その中で順当な範囲で政治が選ぶ分には構わない。問題なのは明らかに不適当な人が抜擢(ばってき)されたかどうか。また、釜山の総領事が政権の対韓外交を批判したような話をしたので更迭された、といわれました。本当にそれで更迭されたのならおかしなことです。政権や内閣人事局の判断がよかったかどうかを、監視、監査する機関があって、事後的に人事の是非が議論されるべきだと思います」

 ――日本でも、政権交代と政治主導を踏まえた官僚の行動規範が必要なのでしょう。

 「行動規範を決めるために、政治性のない第三者機関が議論しても、首相がメンバーを選んで議論を付託する委員会を置いてもいい。要は客観性を担保して政争の具にさせないことです。現政権にこうした問題の解決の意欲がないのなら、『内閣人事局はより公正に人事を行う。そのためにこうした機関を新設する』と公約に掲げる政党や、総裁選に臨む自民党議員がいてもいい」

 ――政治主導のゆがみを解消する取り組みを重ねることが、本質的に重要ということですね。

 「それが全体の奉仕者を育てていく道です。官僚をもう一回、国民が育てるところに来ているわけです。過去2回、国民は政権を作った。ですが、その政権の下での行政を国民が育成するまでにはなっていない。官僚の行動規範を作る第三者機関は国民の代表に近ければ近いほど、行政が国民の意思によって動くことになるのです」

    ◇

 まきはらいづる 1967年生まれ。2013年から東京大学先端科学技術研究センター教授。専門は行政学政治学。著書に「内閣政治と『大蔵省支配』−政治主導の条件」「権力移行」など。

 ■政官違う役割、問われる質 久保田勇夫さん(西日本シティ銀行会長)

 大蔵省(現財務省)、国土庁国土交通省)で、30年以上を公務員として歩き、退官後、「役人道入門」という本を出版しました。役人は専門分野を持つのは当然ですが、役人であることで必然的に求められる技術や哲学に通じているべきではないか、そんな思いを集大成しました。

 公務員は、憲法を含め法令に従う義務がある特別な職種です。しかし、政治家も新聞記者も、そうした認識が薄いと思います。

 公務員だった頃、政治家と本音で話すような場で、「俺たちは選挙で選ばれた国民の代表だ。役人は試験で選ばれただけだ」と自分たちの方が上かのように言われたことがありました。しかし、政官は上下ではなく、仕事の質で異なるのです。

 公務員は問題を分析し、いかなる政策を取るかを検討し、とるべき措置が決まれば関係者を説得し、政策を実現させる職種です。これに対し政治家は世論を見極め、いくつかの選択肢の中でどれを採用するか、価値判断して決定する役割です。

 かつては役割分担が円滑に機能していました。大蔵省で竹下登宮沢喜一両蔵相に仕えましたが、政官の区別をお持ちでした。竹下さんは政官が協力して仕事を成し遂げるという考えで、よく「これをやるには、こう思うが、ここがよくわからない」などと聞かれたものです。決定前に役人とアイデアのキャッチボールをされたのでしょう。

 米国で数千人ものポストを政権が選ぶ政治任用(ポリティカルアポインティー)は、チームワークで仕事をしてきた日本や欧州の社会にはなじみません。政治任用は政権側の政策メッセージを人事で反映できる利点もありますが、短期間で実績を示そうと功名心による弊害も大きく、黙々と仕事をする努力の上に成り立っている日本の伝統的役所文化のメリットを壊すことになります。

 政治主導の流れの中で、問われるのは行政の質が上がったかどうかです。現状が問題なら、政治と役人の関係、あるべき国の形を皆で議論すべきです。政官だけの課題ではありません。ジャーナリズムやアカデミズムの世界を含めて、日本の総力が問われる課題です。トランプ政権による混乱の一方で、米メディアは国の形を議論しています。そうした底力を日本も発揮すべき時です。

 (聞き手はいずれも編集委員・駒野剛)

    ◇

 くぼたいさお 1942年生まれ。66年大蔵省入省。関税局長、国土事務次官を歴任。2000年退官。14年に現職。
    −−「憲法を考える 「全体の奉仕者」どこへ 政治学者・牧原出さん」、『朝日新聞』2017年07月25日(火)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S13053907.html


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覚え書:「書評:世界からバナナがなくなるまえに ロブ・ダン 著」、『東京新聞』2017年10月22日(日)付。

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世界からバナナがなくなるまえに ロブ・ダン 著

2017年10月22日


◆作物画一化から種を救う
[評者]藤原辰史=農業史研究者
 じっくり読み、思索に耽(ふけ)り、反芻(はんすう)する。そんなたぐいの本ではない。すぐに読み、広め、地球全体で議論せねばならぬテーマを扱う。決断を急がなければ、バナナやチョコレートだけでなく、キャッサバや小麦、コメまでも地球から消えかねない。作物に関わる政策決定者・科学者・商社・化学企業がすぐに本書を手に取り、議論し、決断をしなければ、後世の人間たちから地球を破壊した愚者として批判に晒(ざら)されつづける可能性が高い。
 二十世紀の地球の農業を、「飢餓の救済」という名目で変えてきた科学者や企業の多くは、農薬や化学肥料を広く販売するために、作物の品種と種類を少なくし、画一化してきた。当然、作物の多様性喪失のため、病原菌と害虫の攻撃を受けやすくなる。コナカイガラムシはキャッサバを、天狗巣病(てんぐすびょう)はカカオ豆を、葉枯病(はがれびょう)はゴムの木を、ごま葉枯病がトウモロコシを襲い、壊滅的な打撃を受けてきた事例が次々に報告されている。ブラジルの熱帯雨林に切り開いたフォードのゴム農園が葉枯病で壊滅したように。
 著者は読者を煽(あお)っているわけではない。こうした事態を招いてきたのは、本来は農薬によって害虫や病原菌を駆除すべく研究開発を進めてきた科学者や企業であったことを、彼らとの対話も経たうえで、膨大な科学データを駆使しながら説明しているにすぎない。とくに二十世紀の「緑の革命」や遺伝子組み換え作物の普及は、単一な種類の作物の世界的な普及を決定づけた。
 そんななかで、貴重な種子を貧弱な予算で人知れず守ってきた科学者たちもいた。あるいは、天敵を培養しコナカイガラムシを退治した科学者もいた。ケミカルな手段ではない彼らの試みには予算がつきにくい。イラク戦争に一週間に投じられた軍事費十億ドルの四分の一程度で世界中の種子を救うことができる、という批判が鋭い。
 脚注の充実度にも感銘を受けた。これだけでも読む価値があると思う。
高橋洋訳、青土社・3024円)
<Rob Dunn> 米国ノースカロライナ州立大教授。著書『心臓の科学史』など。
◆もう1冊
 大塚茂・松原豊彦編『現代の食とアグリビジネス』(有斐閣選書)。アグリビジネスによる食料支配を指摘し、食のあり方を考える。
    −−「書評:世界からバナナがなくなるまえに ロブ・ダン 著」、『東京新聞』2017年10月22日(日)付。

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東京新聞:世界からバナナがなくなるまえに ロブ・ダン 著:Chunichi/Tokyo Bookweb(TOKYO Web)



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覚え書:「【書く人】性差別の価値観 根底に 『男が痴漢になる理由』 精神保健福祉士・斉藤章佳さん(38)」、『東京新聞』2017年10月29日(日)付。

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【書く人】

性差別の価値観 根底に 『男が痴漢になる理由』 精神保健福祉士・斉藤章佳さん(38)  

2017年10月29日


 これは、おそらく日本で初めての、痴漢についての専門書である。「チカン?」と笑った、そこのあなた。あなたこそが、この本を読むべき人です。目からウロコがぼろぼろ落ちます。
 「痴漢=性欲の強い異常な犯罪者、ではありません。痴漢は依存症の一種で、治療できます」。そう話す著者は精神保健福祉士として、都内のクリニックで性犯罪者の「再犯防止プログラム」に取り組む。昨年末までの受講者は千百十六人。現場での経験と考察を、この一冊にまとめた。
 どこの国でも性犯罪は起きるが、日本ほど公共交通機関で性暴力が頻発する国はない。満員電車が元凶だが、来日してから痴漢を覚え、逮捕された何人もの外国人に出会った。
 「社会が痴漢の実態を知らないからこそ対策がとられず、結果として痴漢大国になっている」と斉藤さんは言う。斉藤さんらの再犯防止プログラムの受講者はまじめなサラリーマンばかり。調べてみると加害者の平均像は「四大卒・会社員・妻子あり」だった。
 痴漢の動機は、過剰な性欲ではなく「ストレスへの対処」なのだという。聞き取った加害者二百人中、過半数が「行為中に勃起していない」と答えた。セックスレスとも関係なかった。実際の回答は「決算期で忙しくなるとやってしまう」「上司に叱られた日は必ず痴漢をする」…。「仕事を一週間がんばったら痴漢してもいい」と話す加害者もいた。スポーツで汗を流す、友達に愚痴を言うといった発散法の代わりなのだ。
 相手を自分の思い通りにできる快感が、ストレスを消す。弱い他者を支配することで優越感が持てるからだ。社会にはびこる「男は女よりも上」という性差別の価値観が彼らを支える。
 「痴漢はいじめと似ている。相手を人間だと思っていない」。被害者が受ける深刻な傷との落差はあまりに大きい。性犯罪で刑務所に入っても出所すれば繰り返す。再犯防止には適切なストレス対処法を身につけることしかないが、治療の選択肢が知られておらず、被害者が増えていく。
 「全ての男性が潜在的に加害者になる可能性がある。ぜひ、男性に読んでほしい」。どんなに勇気を持って告発しても、痴漢は決してなくならない。「痴漢は病気。治療しましょう」というポスターを駅に張ってほしい。イースト・プレス、一五一二円。 (出田阿生)
    −−「【書く人】性差別の価値観 根底に 『男が痴漢になる理由』 精神保健福祉士・斉藤章佳さん(38)」、『東京新聞』2017年10月29日(日)付。

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覚え書:「【東京エンタメ堂書店】<江上剛のこの本良かった!>翻訳小説を読もう」、『東京新聞』2017年12月04日(月)付。

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【東京エンタメ堂書店】

江上剛のこの本良かった!>翻訳小説を読もう

2017年12月4日


 翻訳小説が売れない、と翻訳家が本気で嘆いていた。確かに昔は、日本の小説より翻訳小説を読んでいた気がする。そこで最近読んだ面白い翻訳小説3冊を紹介する。
◆意表を突かれくらくら

 <1>ジェフリー・アーチャー著、永井淳訳『ケインとアベル』(新潮文庫・(上)907円、(下)853円)
 企画している小説の参考に、ジェフリー・アーチャーの小説を久しぶりに読んだ。彼は『めざせダウニング街10番地』など数々の作品が大ヒットした人気作家。彼の作品には随分と楽しませてもらったなぁと感慨深く再読。
 物語は1906年のポーランドで始まる。アベルは、深い森の中で生まれた。その後ポーランド貴族の養子になり、ドイツ兵やロシア兵に家族を殺され、収容所からの決死の逃走を敢行し、アメリカに亡命する。一方のケインはアメリカの銀行家の家庭に生まれ「すくすくと成長し、彼に接したすべての人々からかわいい子供だとほめられた」というぐらい愛に囲まれて成長する。
 その2人が出会い、憎み合い、戦い、そして最後の時を迎えるまでの怒濤(どとう)の人生を描く。息もつかせぬ展開の早さ、意表を突くストーリーに、くらくらしそうになる。永井淳氏の翻訳もいい。
◆「目」で感動 老いは新たな美

 <2>ベルンハルト・シュリンク著、松永美穂訳『階段を下りる女』(新潮クレスト・ブックス・二〇五二円)
 世界的ベストセラー『朗読者』と同じ作家、翻訳家コンビの作品。『朗読者』では「耳」で感動させられたが、絵画をめぐる今作は「目」だ。
 「一人の女性が階段を下りている。右足が下の段を踏み、左足はまだ上の段に触れているが、すでに次の動きを開始している。女性は全裸で、肌は青白く、頭の毛と恥毛はブロンドだ」。これが主人公が突然、再会した「階段を下りる女」と題された絵画だ。この表現だけでも、読者は官能的な世界に惹(ひ)きこまれる期待を抱くだろう。
 主人公は数十年前、この絵に描かれた女性を本気で愛し、弁護士人生を捨てて駆け落ちしようとした。しかし彼女は彼の前から忽然(こつぜん)と姿を消してしまった。彼は失恋の痛みを抱きながらも弁護士として成功する。
 ぜひ、主人公の立場に立ってほしい。心から求めて獲得できなかった女性が描かれた絵画を偶然見つけたのだ。その時あなたは成功し、平穏な人生にやや倦(う)み、妻も亡くしている。もしもあの時、彼女と一緒に駆け落ちをしていたら一体どういう人生を歩んでいたかと、そして彼女の今を知りたいと思わないだろうか。きっとあなたは彼女との過去の冒険譚(たん)を回想し、彼女を捜そうとするだろう。はたして主人公は…? 
 「老い」は新たな「美」であることを「目」で確認できる感動的な小説だ。
◆痺れるハードボイルド

 <3>デニス・ルヘイン著、加賀山卓朗訳『過ぎ去りし世界』(早川書房・1728円)
 著者の作品は大好き。『ミスティック・リバー』『シャッター・アイランド』など多くを堪能した。本書は『運命の日』『夜に生きる』で描かれたアメリカのギャング、コグリン一家もの3部作完結編だ。
 舞台は第2次世界大戦下、1942年のフロリダ州の都市タンパ。引退し、実業家として息子と2人で平穏に暮らす元ギャングのボス、ジョー・コグリンが主人公。
 ジョーはギャングから足を洗ったものの、タンパの表と裏の社会をつなぐ懸け橋の役割を果たしていた。ある時、目の前に6、7歳の少年が現れる。頭にはジョーが子供のころにかぶっていた、ぶかぶかのゴルフ帽が載っている。それが不吉の始まりだった。
 ジョーは、女殺し屋テレサから頼まれたという看守の若者から、あなたの命が危ないと伝えられる。命が狙われる理由が分からない。ジョーテレサに会い、「灰(アッシュ)の水曜日(ウエンズデー)」に殺されると告げられ、自分を狙うギャングたちとの命懸けの暗闘に巻き込まれていく。いつものハードボイルドに痺(しび)れてしまう。これもルヘインものを多数手がける加賀山卓朗氏の名訳のおかげだ。
    −−「【東京エンタメ堂書店】<江上剛のこの本良かった!>翻訳小説を読もう」、『東京新聞』2017年12月04日(月)付。

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覚え書:「折々のことば:820 鷲田清一」、『朝日新聞』2017年07月22日(土)付。

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折々のことば:820 鷲田清一
2017年7月22日

 文学者の生原稿を読む時は……耳を澄ませてその文章の底に流れている語調とリズムをできるだけ注意深く聴き取ること

 (坂本忠雄)

     ◇

 かつて小林秀雄から「読みの浅さ」を警(いまし)められた文芸誌「新潮」の元編集長は、以後「眼(め)で字面を追う」のでなく、文にこう向かうよう自らに課したと言う。言葉はいのちの弾みを圧縮したもの。その息遣いごと抱擁するのでなければ、言葉に託されたものを聞きそびれてしまうということか。『小林秀雄河上徹太郎』のあとがきから。
    −−「折々のことば:820 鷲田清一」、『朝日新聞』2017年07月22日(土)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S13049107.html





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