今日、文明を脅かしている最大の危険はこれ、つまり生の国有化、あらゆるものに対する国家の介入、国家(ステート)による社会的自発性の吸収である
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今日、文明を脅かしている最大の危険はこれ、つまり生の国有化、あらゆるものに対する国家の介入、国家(ステート)による社会的自発性の吸収である。すなわち、人間の運命を究極的に担い、養い、押し進めてゆくあの歴史的自発性の抹殺である。大衆がなんらかの不運を感じるか、あるいは単に激しい欲求を感じる場合、彼らにとっての大きな誘惑は、ただ一つのボタンを押して強力な機械を動かすだけで、自分ではなんの努力も苦闘もせず、懐疑も抱かなければ危険も感じずにすべてのものを達成しうるという恒久不変の可能性をもつことである。大衆は「われは国家なり」と独語するが、これは完全な誤りである。国家は、二人の人間がどちらもフワンという名前ではないという点で同一だといいうるという意味においてのみ、大衆である。今日の国家と大衆は、ともに匿名であるという点においてのみ一致している。ところが大衆は、実際に自分が国家であると信じているのであり、勝手な口実をつくっては国家を動かし、国家を用いて、国家の邪魔になる−−政治、思想、産業などいかなる分野でも国家の邪魔になる−−想像的な少数者を押しつぶそうとする傾向をますます強めてゆくであろう。
この傾向は致命的な結果をもたらすことになろう。つまり、社会の自発性は国家の干渉によって幾度となく暴行を加えられ、いかなる新しい種子も実を結ぶことができなくなるであろう。社会は国家のために生き、人間は政治という機械のために生きねばならなくなるであろう。そして、国家はつまるところ一つの機械に他ならないのであって、その生存と保守は、機械を維持している周囲の生命力に依存しているのだから、社会の髄まで吹つくした後は、自分自身痩せ細り、骨だけになってゆき、ついには死に絶えてしまうだろう。
−−オルテガ・イ・ガゼット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』ちくま学芸文庫、1995年。
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少しだけ、抜き書きといいますか。
都青少年健全育成条例改正案への疑義を少しだけ。
私は、基本的に国家が人間の自由(例えば信教の自由・表現の自由)を規制するあらゆる謀略には反対の立場です。
それがどのような容喙であったとしてもです。
歴史を振り返ればわかることです。
規制をしたければ、個々人において規制をすればよいし、子を憂う親がいればその判断においてなせばよい。
性的表現に関しては、私は保守的ですから、こころがわからぬでもありません。
しかし、人間の自由を脅かすあらゆる規制には反対いたします。
まあ、だからアナーキストのリバタリアンになっちまったわい、というところです。
さて、すこし関連を呟いたので、少し記録として残しておきます。
今日のそれは、それに対する反対の念を細かく表現しようと言うよりも、反対を叫ぶマジョリティの論旨の腰砕けに涙という筋合いですので、その文脈における議論を少しだけ。
(1)本質的洞察を欠いたままnoと叫ぶのは簡単だけど、そうした場合、自分の利害が直接関わらないところでは、雪崩式に権力の狡知を肯定してしまうんだろうなあというところが一番恐ろしい。支配の体系とディシプリンとはそんな枝葉の問題じゃないんです。
(2)その辺の甘ちゃんぶり的小学生の喧嘩では勝てませんよ。ヴォルテール(Voltaire,1694−1778)の名言をいま一度深く反省する必要はあるでしょう、くどいけどネ。 「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。
(3)しかし、その加熱というのは結局「喉元過ぎれば熱さを忘れる 」という程度でしょ。そんなこたア想定で権力は二重三重にしかけてるんですよ。表現とは人間の存在の次元に属することを忘却した好きか嫌いかの二者択一的前世紀のアンチでは勝てませんぜ。
(4)質問者 「日本人には『私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る』を少しも実践できない人が多いような気がします。意識すらしてないような。何故なのでしょうか?」
(5)端的に言えば「お上」に全部「考えてもらった」からです。
(6)どのような思想を持とうが基本的には自由だとは思うんですけどね。その受容者が、撃たれ弱い・硬直しきった厚顔無恥な人間であればあるほど、受容された思想や論理までねじ曲げてしまうというのは怖ろしいものです。
以上。
寝ます。
⇒ 画像付版 今日、文明を脅かしている最大の危険はこれ、つまり生の国有化、あらゆるものに対する国家の介入、国家(ステート)による社会的自発性の吸収である: Essais d'herméneutique