匿名的な「空談」と、本来的な互いに共に語りあうこととは、したがって、無責任な「ひと」と、とこれに対応するとの責任ある関係がことなっているように、ことなっているのである。

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語る者を聞く者にむすびあわせるものは、たいていの場合たしかに、両者が互いに共に語りあう主題である。そのばあい主題は主題化された主題ではなく、会話の−主題なのである。会話の主題として、主題は一箇の伝達である。根源的にいえば、伝達されたものは、ただ伝達することにおいてのみ現に存在する。或るものを共に分かつ伝達にあって一者は、或るものを伝達することにおいて同時にじぶん自身を他者に分かち与える。分かつこと(タイルング)における「共に(ミット)」の本来の意味は、一者−他者(アイン・アンダー)にある。両者が互いに−伝達するもの(アイン・アンダー・ミットタイレン)は、或る他者にそのつど完全に伝達される場合にかぎって「分かたれる」のだ。
 相互(アイン・アンダー)という意味で互いに(ジッヒ)なにごとかを伝達するとき、一者はつねに他者たちのうちの或る者と共に語っている。匿名的な「空談」と、本来的な互いに共に語りあうこととは、したがって、無責任な「ひと」と、<きみ>とこれに対応する<私>との責任ある関係がことなっているように、ことなっているのである。
    −−レーヴィット熊野純彦訳)『共同存在の現象学岩波文庫、2008年、254−255頁。

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昨夜は人生の先輩と少し語り合う機会がもて、充実したひとときを送ることができました。

ブログでの表記で恐縮ですが、ここに感謝の意を表したいと思います。

想像することはひとりでもできますが、何かを創造することは、語り合う空間から立ち上がるのではないだろうか……そんなことを少し考えつつ、さて、仕事へ出かける準備をいたします。

でわ。

⇒ 画像付版 匿名的な「空談」と、本来的な互いに共に語りあうこととは、したがって、無責任な「ひと」と、とこれに対応するとの責任ある関係がことなっているように、ことなっているのである。: Essais d'herméneutique