レヴィ=ストロースの宗教観;謙虚になること

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 L=S 私の両親は信仰をもっていませんでしたが、子供の頃には、とにかくユダヤ的伝統に近いところにいたことになります。両親がユダヤの祭日を祝うことはありませんでしたが、話題にはしていました。ヴェルサーユで、両親はバルミツヴァ〔ユダヤ教の成人式〕の祝いをしたことがあります。しかし、私にうんと言わせるために、これはただおじいさまを悲しませないためだからね、という以外の理由は聞かされませんでした。
 E 宗教心というものが気になることはありませんでしたか?
 L=S 宗教、という言葉で、ある人格神との関係ということをあなたが考えておられるのなら、そういうことは決してありませんでした。
 E その「無信仰」は、あなたのその後の知的生活において、なんらかの役割を演じたのでしょうか?
 L=S わかりません。青年時代、宗教ということに関しては私はひどく不寛容でした。しかし、宗教史、つまりあらゆる種類の宗教の歴史を学び、教えてきた今となっては、私は、十八や二十歳の時よりも、ずっと謙虚になっています。今でも宗教の与える解答を聞く耳は持ち合わせていませんが、宇宙とか、宇宙の中での人間の位置という問題はわれわれ人間の理解を超えたものであり、これからもそれは変わらないだろう、という気持ちはますます深くなっています。時には、根っからの合理主義者よりも、信仰を持つ人間の方が、自分に近いと思えることもあります。少なくとも、信仰を持つ人間は神秘の感覚を持っています。その神秘というのは、私の考えでは、人間の思考が原理的に解決することのできないもののことです。科学的認識はその神秘主義の周縁で、飽くことなき浸食を試みているのですが、人間にできることはそれだけなのです。しかし、科学的認識の筋道を辿ること、それも非宗教的人間としてそうすること以上に、精神にとって刺激的な、またためになることも、私は知りません。非宗教的人間として、と断ったのは、新しい認識の歩みが新しい問題を生み出し、認識の歩みは終わることがない、ということを自覚しておかなければならないからです。
    −−クロード・レヴィ=ストロース、ディディエ・エリボン(竹内信夫訳)『遠近の回想』みすず書房、1991年、17−19頁。

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クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss,1908−2009)のアカデミズムというものは、単なる二者択一ではないことが、そのインタビュー集から見て取ることが出来る。

これも寛容論を考えるうえでは必要不可欠な視座でしょう。

宗教かその否定か。
科学かその否定か。

そうではない沃野にこそ、人間の現実があるという美しい見本のように思われます。

ということで、今日は講義日になりますので、そうそうに沈没いたします。

考察不足でスイマセン。

⇒ 画像付版 レヴィ=ストロースの宗教観;謙虚になること: Essais d'herméneutique

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