人間に奉仕するための道具であるにすぎない
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国家は、政治団体の一部、すなわち特に法の維持・共同の福祉と公共の秩序との促進・公務の処理を担当する部分にすぎない。国家は、全体の利益というものを専門に司る部分である。国家は一個人でもなければ、人々の一団でもない。国家は、一群の制度が組み合わされて一つの最高級の機械となったものである。この種の技術作品は、人間によって作られ、人間の頭脳とエネルギーを用いるものであって、人間なしには無にすぎない。しかし、国家は、理性の優れた具現、非個人的・永続的な上部構造を成すものである。その作用の仕方は、そのうちにおける理性の活動が、法と普遍的な規則の体系によって拘束されていて、われわれの個人的生活におけるよりも一層抽象的であり、経験や個性という偶然的要素から一層ふるい分けられたものであり、また一層冷酷でもあるかぎりにおいて、第二次的な意味で理性的であるといえよう。
国家は、ヘーゲルの唱えたような「理念」の最高の化身ではない。国家は、一種の集合的な超人でもない。国家は、権力と強制とを用いる権限を与えられ、公共の秩序と福祉との専門家・熟練者から組成されている機関であり、人間に奉仕するための道具であるにすぎない。人間をこの道具に奉仕させるのは、政治的倒錯である。個人としての人間人格は政治団体のためにあり、政治団体は人格としての人間人格のためにある。しかし、人間は決して国家のためにあるのではない。国家こそ人間のためのものである。
−−ジャック・マリタン(久保正幡・稲垣良典訳)『人間と国家』創文社、昭和三十七年、15−16頁。
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さすがネオ・トミストのジャック・マリタン(Jacques Maritain,1882−1973)w
「人間に奉仕するための道具であるにすぎない」!
ここを失念して、アリガタイ構築物と見なして議論するから訳が分からなくなっちまうのだろうと思います。
アリガタイ構築物と見なしてしまうから、防衛の論理であぶり出しの魔女がりになっちまうわけなんですわ。
まあ、しかしながら、「人間は決して国家のためにあるのではない。国家こそ人間のためのものである」というくだりは、国家に限らずあらゆる共同体においてそうなのであるわけですけども、そうならないという現状にorzとなってしまうわけですけれども個人的生活における挑戦はまだまだ続くのであった……(謎
ということで、非常に調子も悪いので、今日はこのへんで沈没しようかと思います。
でわ
⇒ 画像付版 人間に奉仕するための道具であるにすぎない: Essais d'herméneutique