行いつつ知ること、知りつつ行うこと




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 心情の理解は単なる理解でなくして、それは同時に行為であるが如き理解である。「愛」、詳しくは「神の愛」の概念はまさしくこのことを現わす。愛は理解と行為との合一である。我々はパスカルが神の認識における実践的なる要素を高調しているのを到る処に見出す。神を知るためには自愛の心を滅し、情慾の火を鎮めなければならない。情念はひとを盲にして神の真理を観ることを妨げるが故に、ひとはまず汚れる情念から自由にならねばならぬ。
 「彼はいう、もし私が信仰をもっていたならば、私は程なく快楽を棄てたであろう。これに反して私は諸君にう。もし君が快楽を棄てたならば、君は程なく信仰をもったであろう」(240)。神の認識には生全体の転換が必要である。そのためには何よりも自然的なる生において「すべての我々の行為の源」であるところの情慾を憎むことを知るのが大切である。かようにして宗教の真理の認識は知的行であり、行為知である。人間の存在におけるディアレクティク、神の存在に関するアンチノミーを解決するものは宗教であった。我々は今このデイアレクティク、このアンチノミーの究極は行いつつ知ること、知りつつ行うことによって解決されるのを知る。生の矛盾、不可解性を残りなく解くものは最後には知識でなくて、かえって実行である。この特殊なる意味において、生の問題を解決するものは生自身であると言い得る。すなわち生の問題はこの優越なる意味において生きることによって解決される。これがパスカルの確信であって、そして我々はそこに彼の最も深き思想を見るのである。
    −−三木清パスカルにおける人間の研究』岩波文庫、1980年、189−190頁。

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現代の特徴とは何なのでしょうか……ねぇ。

おそらく有機的な全体性の解体、一点の肥大化にそのひとつの特徴を見出すことができるかと思います。しかし、人間の生の「全体」性は、認識や知によって代表されるものでもなければ、行為のみによって理解されるわけでもありません。

三木清パスカル観にその一端を見て取ることができるでしょう。

しかし、三木清(1897−1945)もパスカル(Blaise Pascal,1623−1662)も、そしてモンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne,1533−1592)も読まれなくなって久しい。

そこが実は現代社会の問題点かもしれませんね。

より深い人間に対する洞察や共通了解としての教養の欠如が生み出すものは、うすっぺらい言葉の暴風でしかないはずなのですが・・・。



⇒ 画像付版 行いつつ知ること、知りつつ行うこと: Essais d'herméneutique



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