「自分には愛国心がありますが、隣の席の○○君は政府の悪口を言ったから、非国民です」なんて密告する生徒が増える世の中はいやですな
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愛国心は一人一人が心の中に持っていればいい。口に出して言えば偽物になってしまう。そして他人を誹る言葉になる。僕はそう思う。
慶応大学の憲法学の小林節教授は改憲運動の先頭で闘ってきた。自民党、民主党、公明党にもよく呼ばれ、改憲の話をしている。読売新聞の改憲案作成にも携わっている。ところが最近、「こんな改憲ではダメだ」と悲観的になっている。「こんな連中に改憲されるくらいなら、まだしも今のままがいい」とまで言っている。「裏切りではないか」と改憲論者からは言われている。
小林先生に会った時、聞いてみた。「自民党の改憲案の何が一番気にくわないのですか」と。即座に小林先生は言った。「愛国心を強制しようとすることだ」と。「憲法に書いたからといって国民は愛国心を持つものではない。また政治家がそんなことを言うのはおかしい」と言う。政治化は、国民がこの国を愛せるような国にすることが責務だ。そのために仕事をするのだ。それを忘れて、国民に対し、「この国を愛せ」と言うのはおこがましい、と言うのだ。なるほどと思った。「三島由紀夫も、“愛国心という言葉は嫌いだ”と言ってますよ」と言ったら喜んでいた。愛国心は抽象的だし、人間の心の問題だ。それを憲法で規定するのはおかしい。
福岡の小学校で通信簿に「愛国心があるかどうか」の欄があり、問題になったことがある。これもひどい話だ。大人だって愛国心があるのかどうか分からないのに、子供じゃなおさら無理だ。「私は愛国心があります」と言ったら、それだけを信じるのか。あるいは試験をするのか。そんなことをしたら、「自分には愛国心がありますが、隣の席の○○君は自民党の悪口を言ったから、非国民です」なんて密告する生徒が増えるかもしれない。また愛国心のあるなしを競うというのも変な話だ。
−−鈴木邦男『愛国者は信用できるか』講談社現代新書、2006年、70−71頁。
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ちょとここ数日、個人的な問題において心が折れそうな毎日なのですが、折れてそのまんまになってしまうと、「何も始まらない」とスピヴァク女史(Gayatri Chakravorty Spivak,1942−)にどやされますので、久しぶりの休日を利用して、研究と読書だけは朝から晩まで継続できたことに関しては、自分自身をほめてやりたいところ……などと思う凡俗です。
さて、今日はひとつ、五年ぐらいまえでしょうかねぇ、読んでいて眼からウロコだった一節をひとつ紹介しておきます。
著者の鈴木邦男(1943−)さんは、本朝の新右翼団体「一水会」の最高顧問として有名ですが、単なる街宣右翼とは早計すること勿れ。
まあ、本人も著作で言及しておりますが、もともとは暴力的行動派学生だったという通り、それと同じようなことはしておりますし、その事実を否定しておりません。
しかし、思索を深めるなかで言語の意味を行動のなかで徹底的に考え抜いている数少ない「活動家」のひとりであると評価できるでしょう。
決して民族主義に肩入れするつもりはありませんが、プチブル主義的な市民派の眼差しとか、「生きている人間」を忘れてしまう専従者のようなカッチンコッチンの教条主義的眼差しでは理解不能な探求者のひとりだとは思います。
だから、アナキストの故・竹中労(1930−1991)先生とも交流されていたわけですけれども、その鈴木さんが、自身の足跡を振り返りながら、何かをリスペクトするといことの問題点を衝いたのがうえの一節だと思います。
「愛国心は一人一人が心の中に持っていればいい。口に出して言えば偽物になってしまう。そして他人を誹る言葉になる」ということに関しては、僕もそう思うし、それ以上に問題なのは末尾のところでしょう。
先に言及した通り、「何かをリスペクトする」問題です。
「何かをリスペクトする」ことは人間が人間である以上避けられない問題ですが、これが相対的競争原理の枠組みで機能してしまうと、リスペクトする人間を圧殺するだけでなく、競争相手をも打倒し、そしてリスペクトする対象すら汚辱してしまうのかもしれませんね。
くわばら、くわばら。
ということで、「黒龍」(福井県)の「逸品」でも呑んで寝ます。
⇒ 画像付版 【研究ノート】無自覚的に自己を拘束している価値意識を相対化する精神態度と権力者や多数者の意見に安易に迎合しない「痩我慢の精神」: Essais d'herméneutique