【覚え書】幕末の戊辰戦争にあっては、旧徳川軍は日の丸で戦った







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 国旗は、たとえば李氏朝鮮のばあいには大極旗があり、清朝のばあいには黄龍(イエロー・ドラゴン)がある。しかしイエロー・ドラゴンは清国の国旗ではなく、王朝もしくは清朝皇帝の旗である。五行説にのっとった東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武、そして中央の黄龍という方角の守り神の形象である。中央の色は皇帝が立つところの黄色であり、黄龍は皇帝のシンボルにほかならない。
 日本のばあい、幕末にペリー(=アメリカ)が来て、「開国と通商」を求め、その一年後に日米和親条約も結ばれた。外交関係が近代国家と国家との間にできあがってくるのだから相互の国のしるし、つまり国旗が必要になったのである。このとき薩摩の島津斉彬という西郷隆盛の先生である藩主が、「日の丸」のデザインを幕府に提案し、それで国旗のデザインが決まった。したがって、二〇〇〇年に、国旗・国歌法案を決めるときに、共産党は「日の丸には法的な根拠がない」と主張したが、それは当たっていない。幕府は安政元年(一八五四)、正式に決めて、すべての藩に通達するというかたちをとり、それを明治国家が踏襲した。
 幕末の戊辰戦争にあっては、旧徳川軍は日の丸で戦った。五稜郭に翻っていたのも、徳川の中黒の旗ではなくて、日の丸であった。それに対抗するために明治政府の薩長軍は、何とか日の丸を超えるようなものがないか、あるいは対等に戦えるようなものがないかと考え、天皇家の菊の御紋を選んだ。戊辰戦争は日の丸と菊の御紋との戦いであったとも言える(拙著『開国のかたち』参照)。実際、庄内藩での戦いでは、庄内藩松山藩会津藩という連合軍がつくられたが、徳川幕府のために戦うのではなく、日本国のために戦うので、連合軍は日の丸で戦った。それらの歴史記念館には、いまでも当時の日の丸が残っている。
 五稜郭でも、箱館政府が陣地に掲げていたのは日の丸だった。ここに加わった新撰組は、もともと山型に「誠」と書いた有名な紋章をもっていたが、これは京都にいたときだけの紋章であり、のちに鳥羽伏見の戦いで負け、江戸に帰り、その後会津に入ったときから新撰組の旗は、山型の上に日の丸が入っていた。これもすべて当時の実物が残っている。
 このように、国家というものは「想像の共同体」であるから、実際にかたちは見えない。それを、国旗という国のしるしで見えるようにしたり、国の美しさをうたう国歌で表そうとしたりしたのである。
    −−松本健一『日本のナショナリズムちくま新書、2010年、144−146頁。

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日の丸の大好きな君へ

有名な話ですが、きちんとまとまっている一文なので、覚え書として紹介しておきます。

国旗が何であろうが・国歌が何であろうが、リバタリアンアナキストとしてはそれが何であろうが「どうでもええやん」というところがありますが、市民のひとりとしては、うえの事実をわすれてはいけませんですわな。

規定の約束事を超越させた「旗印」というものが出てきた時というのは、だいたいろくなことはありゃアしません。



以上。

寒い+調子が至極悪いので呑んでねる。





⇒ 画像付版 【覚え書】幕末の戊辰戦争にあっては、旧徳川軍は日の丸で戦った: Essais d'herméneutique




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