「京都市西京区三条下ル、花小路右入ル、煙草屋ノ角左折シ、ずずっト進ンデ、門ニ見越シノ松アル(おやそうかい、ごくろうさん)庭ニ山茶花咲ク家三番地」







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  発見不能な「自己同一性」
 亡くなった江藤淳は、全共闘運動が終焉に向かった一九七〇年に「『ごっこ』の世界が終わったとき」と題する論文で、
 「日本人としての真性の自己同一性」
 なるものの模索を試みた。
 それ以降、ずっと模索をお続けになり、結局、発見し得ないまま、江藤は自死を遂げた。
 わたしに言わせれば、当然だ。
 「日本人としての自己同一性」
 なんてものは、どこをどう探したって存在しないのだ。
 つまり、「同じ日本人」でありながら、江藤と神戸の少年Aは異なる。オウムの浅原尊師とも違う。違って当たり前である。
 わたしと小林よしのりとは異なる。また異なって欲しい。あんなみっともない人と同類に思われては、たまらん。
 「死者に鞭打つ言説は避けるべきだ」
 「良識」を有する「健常なる」人々からの声が聞こえてくるようだが、わたしはそう考えない。
 「死者も生者も鞭打たれるべきである」
 と私は考える。
 これをちゃんとやっておかないと「歴史」は書き変えられてしまうからだ。
 「日本人としての真性の自己同一性」
 と江藤が言った際、その「日本人」とは、アイヌやウイルタやニブヒのいわゆる「日本国」内の少数民(族)を含んでいたのか? 沖縄や小笠原の人々を包摂していたのか? 「元在日」であった二十万人を超す「帰化」人たる「元」朝鮮・韓国人たちはどうなのだ?
 江藤を含み「日本人」という主語を多用する人たちを、わたしは「日本人論」者と呼んでいる。彼ら彼女らの著作を読んで、すぐに気付くのは、そこで述べられた「日本人」の範疇に右記の人々が含まれていない、という点だった。
 いやいやそれだけではない。
 身体障害者精神障害者、犯罪歴のある人、新宿の公園で寝てる人、失業中の人、フェミニスト、同性愛者、神戸の少年A、オウムの浅原尊師、和歌山の林真須美被告、そして「非国民」たち、アカ、シロ、ピンク、ブルー、パープル、イエロー、ブラック。
 みんな、すべて、さっぱり、きれいに、全部、まとめて排除されていた。ひどい「日本人論」者の主張だと、「日本人」の範疇に日本人口の過半数である女性すら含めない。なんじゃい、こりゃ。
 そこに存在するのは、エクスクルーシィヴ exclusive =排除・淘汰の論理であり、インクルーシィヴ inclusive =包容・共生の思想ではない。
 つまり江藤の言う「日本人」や、多くの「日本人論」で述べられる「日本人」とは、
 「京都市西京区三条下ル、花小路右入ル、煙草屋ノ角左折シ、ずずっト進ンデ、門ニ見越シノ松アル(おやそうかい、ごくろうさん)庭ニ山茶花咲ク家三番地」
 在住の小泉純疣痔(じゅんいぼじ)さん一家のご主人さまなのだ。
 「東京都北区王子駅前、ヨク出ル店ト評判ノ、極楽ぱちんこ店」
 店主・金田痔太郎さん一家の三女・由香里さんではあり得ないし、また、
 「青森出身高校中退。希望ハ破レ、夢弾ケ、今ジャ場末ノぴんさろがーる。知ラヌ男ノちんぽヲ嘗メテ、イツカ涙モ涸レ果テタ。知ラザア言ッテキカセヤショウ。顔射OK中出シアリノ、生ふぇらオ潤トハ、アタイノコトダベサ」
 こと錦糸町三丁目うらぶれ荘七号室在住の本名・加藤潤子さん二十四歳でもあり得ない。

「飛鳥は日本人の心の故郷」
などとほざく阿呆たちが、よく居るでしょう。ごくろうさん、と申し上げたい。
しかし「日本人の心の故郷」が、なぜ、「飛鳥」であるかを考えたことがあるのだろうか?
換言すれば、石川県羽咋郡を「心の故郷」とする人たちは「日本人」ではないのか? 沖縄県読谷村を「心の故郷」でどこが悪い?
これが日本のエクスクルーシィヴの論理なのだ。
「飛鳥は日本の心の故郷」
との主張は、石川県羽咋郡沖縄県読谷村を「心の故郷」とする人たちを「日本人」の範疇から排除する。差別して、抑圧する。
 この石川県羽咋郡沖縄県読谷村という地名を、鳥取県由良あるいは岩手県腹帯という地名に置き換えても同様だ。あんたら、「日本人」じゃなかったのよ。知っていましたか?
 「排除と差別の論理によって少数者が抑圧される社会とは、じつは多数者にとっても住みづらい社会である」
 との「発話者の位置(ポジション)」をわたしは知る。
 エクスクルーシィヴ=排除・淘汰の論理には荷担し難い。わたしは、インクルーシィヴ=包容・共生の思想を支持する。なぜなら前者ではなくて後者によって、少数者のみならず多数者にも住みよい社会の構築が可能となる、と考えるからだ。
 「日本人としての真性の自己同一性」
 なるものは、最初(はな)から存在していなかったのだ。そんなものを模索しても、見付け出せるわけがなかったのです、江藤センセイ。ともあれ、合掌。

    −−森巣博『無境界家族』集英社文庫、2002年、169−173頁。

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自己同一性のマジックにおちいった頭のわるい復古主義者やら修正主義者、そして、本来の自然科学の手法とはかけはなれた俗流・科学“主義”を科学と盲信して病まない物証主義者をこのところ眼にすることが多く、頭を悩ませておりますので、長くなりましたが冒頭に引用させていただきました。

結局は同定できないはずの現象を同定したと錯覚する陥穽に陥っているというか・・・
水面に映った月を月そのものと錯覚しているというか・・・

自分自身が排除されているにもかかわらず、排除の構造に荷担してしまっているというか・・・

自己同一性の追求なんざ、テキトーにうっちゃるべきなんですよ、ホント。

そこのところに神経質になると神経症になってしまうじゃアないですか。

ホント、揺らぎやすい自己を同定できるとは・・・片腹痛いものの言い方ですね。

さて、考えても、まともに相手にしてもしょうがいないので、今日は呑んで早めに休みます。

なにしろ、今日が一月最後の休みになりそうなのだからです。

土曜日からそのまま仕事で、済んでから週末は大阪出張。
それが終わると、そのまま仕事で、再来週の金曜日が休み。

めちゃくちゃな設定になっている。。。

しかし、考えなければならないこと、指摘しなければならないことは山のようにあります。

無邪気は時として罪になり、盲目と無知はその歩みを誤らせてしまうものです。

だから、、、呑んで吠えるしかありませんねぇ(苦笑






⇒ 画像付版 「京都市西京区三条下ル、花小路右入ル、煙草屋ノ角左折シ、ずずっト進ンデ、門ニ見越シノ松アル(おやそうかい、ごくろうさん)庭ニ山茶花咲ク家三番地」: Essais d'herméneutique




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