みじめな生活のしっぽを、ひきずりながら、それでも救いはある筈だ。






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キリストは、病人をなおしたり、死者を蘇らせたり、さかな、パンをどっさり民衆に分配したり、ほとんどその事にのみ追われて、へとへとの様子である。十二弟子さえ、たべものが無くなると、すぐ不安になって、こそこそ相談し合っている。心の優しいキリストも、ついには弟子達を叱って、「ああ信仰うすき者よ、何ぞパン無きことを語り合うか。末だ悟らぬか。五つのパンを五千人に分ちて、その余を幾筐ひろい、また七つのパンを四千人に分ちて、その余を幾筐ひろいしかを覚えぬか。我が言いしはパンの事にあらぬを何ぞ悟らざる。」と、つくづく嘆息をもらしているのだ。どんなに、キリストは、淋しかったろう。けれども、致しかたがないのだ。民衆は、そのように、ケチなものだ。自分の明日のくらしの事ばかり考えている。
 寺内師の講義を聞きながら、いろんな事を考え、ふと、電光の如く、胸中にひらめくものを感じた。ああ、そうだ。人間には、はじめから理想なんて、ないんだ。あってもそれは日常生活に即した理想だ。生活を離れた理想は、−−ああ、それは十字架へ行く路なんだ。そうして、それは神の子の路である。僕は民衆のひとりに過ぎない。たべものの事ばかり気にしている。僕はこのごろ、一個の生活人になって来たのだ。地を匍う鳥になったのだ。天使の翼が、いつのまにやら無くなっていたのだ。じたばたしたって、はじまらぬ。これが、現実なのだ。ごまかし様がない。「人間の悲惨を知らずに、神をのみ知ることは、傲慢を惹き起す。」これは、たしか、パスカルの言葉だったと思うが、僕は今まで、自分の悲惨を知らなかった。ただ神の星だけを知っていた。あの星を、ほしいと思っていた。それでは、いつか必ず、幻滅の苦杯を嘗めるわけだ。人間のみじめ。食べる事ばかり考えている。兄さんが、いつか、お金にならない小説なんか、つまらぬ、と言っていたが、それは人間の率直な言葉で、それを一図に、兄さんの堕落として非難しようとした僕は、間違っていたのかも知れない。
 人間なんて、どんないい事を言ったってだめだ。生活のしっぽが、ぶらさがっていますよ。「物質的な鎖と束縛とを甘受せよ。我は今、精神的な束縛からのみ汝を解き放つのである。」これだ、これだ。みじめな生活のしっぽを、ひきずりながら、それでも救いはある筈だ。理想に邁進する事が出来る筈だ。いつも明日のパンのことを心配しながらキリストについて歩いていた弟子達だって、ついには聖者になれたのだ。僕の努力も、これから全然、新規蒔直しだ。
    −−太宰治「正義と微笑」、『パンドラの筺』新潮文庫、平成元年、149−150頁。

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ひさしぶりに太宰治(1909−1948)の「正義と微笑」を再読しましたが、作中の「僕」の心境というものはわからぬものではありません。

理想の探求と生活世界での拘泥という二極対立がそれですが、若い頃というのは前者に傾きがちで、生活に「慣らされて」しまうと後者へと傾いてしまう。

若い「僕」のような人間にはそれが「許せない」わけでし、そのことは「敗北」を意味していると受け止められてしまうことがあります。

わたしもありましたが……

しかし、生活に「慣らされて」拘泥をよしとすることは論外として起きますが、生活に拘泥しながらも、探求することは恐らく可能なのではないのか−−などとは経験上からですけど思ってしまいます。

しかし、なかなかそこがうまく表現ができないんです。

ですから「兄さん」のように、「お金にならない小説なんか、つまらぬ」というような反語表現しかできないのですが……、このへんを言語との真摯な格闘によって表現できるようになれば、二極対立のなかで引き裂かれない在り方へと転換できるきっかけにはなると思うのですが……、マア、ワタクシも語彙が豊富な方ではありませんから、反語表現ないしは教科書的記述によってしか表現できません。

まあ、いずれにしても、アリストテレス主義者を自認するものとしては、「日常生活に即した理想」だとか「生活を離れた理想」というような二者択一の思考に引きずられるないようにはしたいものです。



ということで、今日より月末まで休日が全くなしorz

冬休みあけのレポートの山も到着しましたので、出張前には終わらせないと……まずいという現実生活世界に「拘泥」しているという状況です。

なので、かる〜く呑んで寝ますか。

今日は青森の銘酒「純米酒 桃川」(桃川株式会社・青森県)!



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けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるが、あの最初の場合にもあのように、智恵を愛求し(哲学し)始めたのである。ただしその始めには、ごく身近な不思議な事柄に驚異の念をいだき、それから次第に少しづつ進んではるかに大きな事象についても疑念をいだくようになったのである。
    −−アリストテレス(出隆訳)『形而上学 上』岩波文庫、1961年。

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あ、そうそう蛇足ですけど、少し付け加えておきます。

「キリストは、病人をなおしたり、死者を蘇らせたり、さかな、パンをどっさり民衆に分配したり、ほとんどその事にのみ追われて、へとへとの様子である。十二弟子さえ、たべものが無くなると、すぐ不安になって、こそこそ相談し合っている」というくだり。

これはキリストにだけ限定された問題ではなかろうですよ、宗教史をひもとくとあちらこちらで散見されます。いやはや、追随者というものが大切なものをダメにしてしまうとは−−orz





⇒ 画像付版 みじめな生活のしっぽを、ひきずりながら、それでも救いはある筈だ。: Essais d'herméneutique




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