思想の隷従性、つまり思想が有用な諸目的に屈服すること、一言でいえば思想の自己放棄は、ついに計りしれないほど恐るべきものとなってしまった






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 従って本書のなかには人間たちが自らの内奥の真実から身をそらせ、内奥の真実から逃れようとする事実から生じる屈従に代償を与えたいという欲求があるけれども、本来の私の意図はそういう欲求を大きく超えてはみ出している。「普遍経済論」の第二巻である本書が追求しようと努めているものがなにであるかというと、それは人間たちの活動を、自らの諸資源の無益な消尽という目的以外の他の目的へと服従させるようなさまざまなイデーを全般的に批判することである。従属的な諸形態を基礎づけている諸々の見方を破壊することが問題なのである。
 私の考えでは、思想の隷従性、つまり思想が有用な諸目的に屈服すること、一言でいえば思想の自己放棄は、ついに計りしれないほど恐るべきものとなってしまったように思われる。実際、一種の病的肥大にまで達している現代の政治的・技術的思想は、それが立脚しているはずの有用な諸目的という面そのものの上で、結局のところ取るに足らない結果へとわれわれを導いてしまったのである。なにごとも隠蔽してはならず、問題となっているのは結局人類(人間性)の破算であると言わねばならない。もっともこの破算が関わっているのは全体としての人間ではないだろう。<隷従的な人間>、有用でないものから、なにものにも役に立たないものから眼をそむけてしまう人間のみが、巻き込まれ、問い直されているのである。
 しかし今日あらゆる方面で権力を掌握しているのは、そういう<隷従的な人間>なのである。そして<隷従的な人間>が人類全体を自分たちの諸原理へと還元してしまったというわけではまだないのは真実としても、少なくともそうした隷属性を弾劾する声、そしてそれが破算へと導かれることを不可避にしているものをはっきりと告げる声が発せられていないということもまたたしかであろう……そういう声を発することはきわめて困難なことに違いない…… それでも結局のところ次の二つのことがともに確認されることになる。すなわち<隷従的人間>が権力を占拠している権利にはっきりと異議を申し立てるすべをこころえている者がまだ誰も現れていないこと、−−が、しかし<隷従的人間>の破算が途轍もない結果をもたらすということである。
    −−G・バタイユ湯浅博雄・中地義和訳)『エロティシズムの歴史』哲学書房、1987年、13−15頁。

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起きたら、大阪へ向けて出発しなければならないにもかかわらず、荷造りは済んだものの、種々準備がおわらず……。

こういうときは、蕩尽するに尽きる!

……とは思うものの、酒も底をつきており、テキトーに嘗めてしまうと、終わってしまうという状況で、どうすることもできず、テキトーにごまかしごまかし呑みながら、作業をすすめている状況です。

すべて数値に変換され、その合理性・経済性が追及されるのが現代社会の特徴ですが、それが人間世界のすべてではありません。

合理性・経済性のみ追及するということは、合理性・経済性に対する<隷属>になってしまうはずなのに、それこそが最高目的と勘違いしているのが、マア、現代世界の陥穽というやつでしょう。

そのあたりをバタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille,1897−1962)は文学的に突いてくるわけですが、なかなかそれも励行できず、淋しい毎日を送ってしまうというorzです。

……ってなことを考えずに、あとはパワーポイントの最終調整だけですので、少し呑みながらがんばりますかッ……ねぇ???

しかし、おつまみがベビースターラーメンしかないという一抹の寂しい風が股座を吹き抜けていく深夜www






⇒ 画像付版 思想の隷従性、つまり思想が有用な諸目的に屈服すること、一言でいえば思想の自己放棄は、ついに計りしれないほど恐るべきものとなってしまった: Essais d'herméneutique