長い物には巻かれ、泣く子と地頭には勝たれなかった


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 門前の小僧習わぬ経を読むという歌留多を読んで、孟子の母は三度その居を移したという。村の有志家は何時でも、ソンナものを学校の近所に置いては学生のためにならないといって、遊郭や兵営や、待合や芸妓屋の設置に反対する。人は到底環境の支配を免れ得ない動物である。ただでさえ気が荒み殺気が立って困っている処へ、剣突鉄砲肩にしてのピカピカ軍隊に、市中を横行闊歩されたでは溜ったものでない。戒厳令と聞けば人は皆ホントの戒厳と思う、ホントの戒厳令は当然戦時を想像する、無秩序を連想する、切捨て御免を観念する。当時一人でも、戒厳令中人命の保証があるなど信じた者があったろうか。何人といえども戒厳中は、何事も止むを得ないと諦めたではないか。現に陛下の名においてという判決においてすら、無辜の幼児を殺すことも、罪となるとは思えない当時の状態であった、と説明して居るではないか。営内署中どこでも、いやしくも拘束されたる者の語るを聴け、彼らも、また彼らも、戒厳令を何と心得ていたかがわかる。到る処で巡査兵卒仲間同志の話す処を立聴くがよい。今でも血に餓えた彼らは憚ることなく、当時の猛烈なる武勇とその役得や貢献数の多かった事とを自慢するではないか。今になって追々行衛不明者の、身の毛も辣つ悲惨なる末路が、漸く分明して来るではないか。実に当時の戒厳令は、真に火に油を注いだものであった。何時までも、戦々恟々たる民心を不安にし、市民をことごとく敵前勤務の心理状態に置いたのは慥かに軍隊唯一の功績であった。全く兵隊さんが、巡査、人夫、車掌、配達の役目の十分の一でも勤めてくれていたら、騒ぎも起こらず秩序も紊れず、市民はどんなにか幸福であったろう。
 しかるにかかわらず、かかる看やすき明白の道理を無視して、輿論が頻りに戒厳令を賛美渇仰し、総ての功績を独り軍隊にのみ帰せんとするはそもそも何故であるか。
 それは貧すれば鈍し、苦しい時は神を頼み、溺るる者は藁をも掴むとか。心理学者に拠れば、当時の人間は全部精神病者だったと言う。これも一説であり反面の真理であろう。けれども全部の人が心底より戒厳令万歳、軍隊万々歳を感謝したのではよもあるまい。中には長い物には巻かれ、泣く子と地頭には勝たれなかった者もすこぶる多かった。故に、間もなく正気の沙汰となり、軍閥に対し一斉射撃を開始する日も遠くはあるまい。
 想い起す十八年前、桑港(サンフランシスコ)大震火の際にも、戒厳令が布かれ(この点真偽保証)軍隊も繰り出された。が、ここでは彼らはただ消防の役割と運搬の任務とを忠実に果たしただけで、秩序の維持はポリスメンに、徴発配給はコンミッティーに任せたせいか、そこにはもちろん自警団も奮起せず、朝鮮人も虐殺されなかった。もっとも頭から人種も異なり武士道も違っていたからだかも知れないが。
    山崎今朝弥(森長英三郎編)『地震憲兵・火事・巡査』岩波文庫、1982年、221−223頁。

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「私服警官が携帯電話販売店を親を装って調査をした」とか……。
ありえない時代になりつつあると感じるのは私だけかしらん???






⇒ ココログ版 長い物には巻かれ、泣く子と地頭には勝たれなかった: Essais d'herméneutique