狐狸庵先生の指摘した「非情な問い」





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 非情な問い
 私はテレビが大好きだ。テレビを見ていると勉強も仕事も捗らないことは重々、わかっているけれども、やっぱり家にいる時はチャンネルをまわしてしまう。
 朝食の時は、さいわい勤めをしていない身なので各局のモーニング・ショーを見る。夜には、近所にかなり大きなビデオ屋ができたので、映画のビデオを借りて、テレビで面白そうなのがない時はそれをうつす。
 だからテレビ亡国論などを言う御仁の御主旨はわかるけれど、人生、そんなにかた苦しくお生きにならなくてもいいじゃありませんか、ねえ、オッさん、と肩をたたきたい気持ちだ。
 もともと私はこの道ひとすじ型の人間を尊敬はするが、自分がそうありたいとはあまり思わない。
 この道ひとすじ、立派だ。しかし一緒に食事をしている時、スープからデザートの間まで終始学問の話をなさる学者とはあまり食事を共にしたくないのが本音である。
 「今年のセ・リーグはやはり阪神でしょうか」
 と話題をかえても、その学者が怪訝な顔をして、
 「さァ? 関心ありませんね」
 「次の有馬記念はやはり本命ですかね」
 「は? なんのことですか、それは」
 そういう学者は偉いにちがいないが、一緒に住みたくはない。
 私はやはり「少しふざけた」友人でないと、親しみが持てない。といって一方、勉強は何ひとつもせず、マージャン、競馬、競輪の話しかない人にもやっぱり閉口する。一時間ぐらいは面白いのだが、そのうちあきてしまう。
 閉口ついでに言うのだが、近頃の二十歳から二十五歳ぐらいの娘さんたちと食事をしていると実に退屈だ。誰かの噂、ボーイ・フレンドの話、洋服の話、それだけを彼女たちはペチャクチャしゃべるのだ。
 そんな時私は彼女たちの顔をつくづく見て、「こいつはバカではないか」とよく思うのだが、そんな失礼なことはもちろん言えない。そしてもしこの娘たちと一緒にいて楽しいと考える青年が世にいたら、その青年もバカではないかとふと思ったりする。
 もっともそれは私がもう仙人のような老人になっているためだろう。
 ところで話をもとに戻そう。
 テレビでよく若い女性アナウンサーがインタビューをしている場面にでくわす。
 この間も高校生の娘を殺された父親にむかって、
 「お嬢さんを亡くして、どんなお気持ちでしょうか」
 とたずねている女性アナウンサーがいた。
 私もかつてある有名な先輩を亡くして苦しみをこらえながら故人の通夜に行くと、門前で若い女子アナウンサーがマイクをつきつけ、
 「あの人が亡くなられて、どんなお気持ちですか」
 と阿呆のひとつ憶えのような質問をされた。
 どんな気持ちか、娘を失った父の気持ちはたずねずとも万人にわかる筈である。親しい先輩を失った後輩がどんな悲しみにあるか、たずねなくても誰だってわかる筈である。それに、
 「もっと人を傷つけぬ質問ができないのか」
 と私はテレビを見ながら言いたくなる時もある。女性アナウンサーの教育や勉強は何も「トナリノタケヤニタケタテカケタ」という発音の勉強だけではあるまい。少しは人間の心の機微を知り、視聴者が何を知りたいかを承知して、それにふさわしいインタビューをやってもらいたい。皆さん、どうお考えになりますか。
    −−遠藤周作「非常な問い」、『変わるものと変わらぬもの』文春文庫、1993年、107−109頁。

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小説の名手とははからずも随想の名手であり、一流の思想家でもあります。
こよなく愛する狐狸庵先生こと遠藤周作(1923−1996)氏もそのひとりですが、いや〜あ、短い文章ですが、「読ませる」だけでなく「様々な論点」をちりばめてしまうところに驚いてしまう次第です。

人間の度量。

学ぶことの意味。

メディアの問題。

総じて生き方の問題。

いまから20年近く前の文章ですが、この問題、一向に解決の兆しなし。

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⇒ ココログ版 狐狸庵先生の指摘した「非情な問い」: Essais d'herméneutique







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