「戦時下ジャーナリズム」に関するスケッチ、「『優しさ』と無責任はまったく別の概念である」






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 半世紀も前の終戦直後のことである。
 焼け残った神田書店街の神保町の交差点に近い岩波書店の小売部の前に、「生活は低く理想は高く」という標語の看板が掲げられていた。新刊の文庫が発刊される日には、早朝から学生の長蛇の列ができていた。
 学生たちは、戦争下の岩波が、積極的には軍部に協力しなかったのを知っていたのである。だが、行列の学生に制服姿は少なく、彼等の多くは、階級章をはずした軍服に軍靴を履いていた。しかし日々のくらしはどれほど低くても、理想は高くというスローガンは、輝かしい未来を約束させるものとして若い人々の心を捉えていたのである。
 書店の店頭には、新興出版社の刊行物と並んで、戦犯的大出版社の書籍や雑誌が積み上げられていたが、学生たちはそれを横目に見るだけで、立ち止まることもしなかった。その間、戦犯的な雑誌の多くが次つぎに姿を消したが、大出版社のいくつかは残った。むろん、大出版社の雑誌といえども、あの戦時下に際立った存在を示したものは廃刊せざるをえなかったわけで、たとえば、講談社の『富士』や、文藝春秋社の『大洋』、新潮社の『日の出』といった諸雑誌である。それよりも学生たちは、戦争下に廃刊を命じられた『改造』(改造社)や『中央公論』(中央公論社)の復刊号に、先を争って飛びついた。
 そんな時代でありながら、しかし戦犯的大出版社は内実は火の車であっても倒産せずに生き残った。活路を単行本に求めたからである。
 本文でも指摘したように、それら出版社のほとんどは、なんの謝罪も反省もなしに戦後の再出発を図ったわけだが、それらに共通する主張や態度は、一切の責任を国家権力に押しつけ、「国家によって欺かれた」だけだと自らを被害者に仕立て、国民の批判をかわそうとした点である。
 だが、はたしてそうであろうか。
 一般の国民が、「八紘一宇」や「聖戦」思想を信じ込まされたのは事実である。しかし、はっきり言わせてもらえば、学問・教養のある知識人までが「だまされた」というのは嘘である。
 開戦の時、虚をつかれた知識人のほとんどは「しまった」と思い、敗戦を予想したとは、終戦直後の菊池寛文藝春秋社社長)の言葉(『日の出』復刊第二号)だが、知的営為としての出版にかかわる者が、だまされたなどというのはあり得ないことである。くりかえすが、「だまされた」のは一般国民であり知識人ではないのだ。知識人は、侵略戦争であることを知っていて協力した(またはさせられた)のであって、知らないで協力した国民とひとしなみに扱うことはできないのである。
 とはいえ、彼等知識人に同情すべき点がまったくなかったわけではない。それは、『改造』や『中央公論』の例でもわかるように、ギリギリの線で抵抗することお不可能ではなかったのである。百歩譲って、それもまた至難であったとするにやぶさかではないが、どうしても許せないのは、戦時下の自身について反省する態度がまったくみられないことである。
 いま、それら戦時下の諸雑誌に目を通すことは容易ではないが、戦犯的出版社にどのような反省があるのかをかんたんに知る方法は、戦後にまとめられた社史を読むことである。彼等に、再び道を誤ってはならないという自我や信念があるかないかは一目瞭然なのである。
 もちろん、それは出版社の側にのみ責任があるわけではない。戦後の永い年月、その責任をあいまいにしてきた、この国の文化人や知識人にも責任の一端はある。とりわけ、それらのメディアに依存してきたり関係をもってきた文筆家や学者・研究者の責任は重い。
 とはいうものの、私はいちがいに彼等を非難しようと思うものではない。なぜなら、今日、彼等の中核をなす部分は、戦後生まれで、戦時下のメディアの動態については、ほとんどその知識がないからである。私が批判的にならざるを得ないのは、戦時下の状況を知る知識人たちであり、彼等の戦後責任についてである。
 そういう重大な問題から逃避したり怠惰であるのは、西欧では知識人と呼ばれないのだということを聞いたが、それが事実なら、この国には疑似知識人ばかりがいて真の知識人は存在しないことになる。
 私は、あの戦時下に、権力と戦う勇気をもたずに妥協した者を、頭から卑怯者よばわりをしない。だが、曲がりなりにも言論の自由が保障される今日、相手がもう一つの権力といわれるメディアであっても、それと戦う勇気のない知識人に知識人の資格を認めるわけにはいかない。
 おそらく、そういう言い方をすれば、彼等はむしろ自身を正当化して、「優しさ」が大切だと言うであろう。だが、「優しさ」と無責任はまったく別の概念である。
    −−高崎隆治「あとがき」、『新潮社の戦争責任』第三文明社、2003年、177−181頁。

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ちょっとながくなりますが引用させて戴きます(っていつものことでしょう……というツッコミはなしで)。

このところメディアの問題で少し気になることや、考えなければならないことも多くあったので、学生時代にお世話になった戦時下ジャーナリズム研究家の高崎隆治先生の著作をまとめてひもといていたのですが、ここがやはり☆だよなということで、入力した次第です。

確かに、戦時下ジャーナリズムはジャーナリズムの敗北の一つの歴史であり、国家が総てを監督するという事態の悲しい見本であることは否定できません。

しかし、それを「隠れ蓑」としてしまうことにも首肯できないということがあるんです。

それが何か。

「知識人としての責任」ということです。

面従腹背という手もあるだろうし、『改造』『中央公論』のような事例もあります。そういう声をあげることができなかったとしても、積極的に荷担しないという方法もあります。
※方法論に関して議論することが本旨ではありませんのでひとまず置きます。

ただ、いずれにしても、「知識人として生きる」ということの「責任」はあるはずです。

この一点を失念してしまうと、いけいけどんどんで大変なことになってしまう……。
そのことだけは間違いでしょう。

だから「あの戦時下に、権力と戦う勇気をもたずに妥協した者を、頭から卑怯者よばわり」するつもりは同じくありませんが、「一切の責任を国家権力に押しつけ、「国家によって欺かれた」だけだと自らを被害者に仕立て」てしまう根性には納得がゆかないのも事実です。

これは要するに、「私は関係なかった」という鎧で身を鎧う心根に起因するのだと思います。

だけど、使われ・利用されただけ……「私は関係なかった」という筋書では何も説明責任にはならない筈なんです。

ここを読み間違えると、同じパターンつうのは招来されてしまうだろうと思います。

だからこそ、私は「自己責任」という言葉を新自由主義の文脈で流通させることには違和感がありますが、人間が「自分の言葉」に「責任」をもっていきるという生活世界の感覚での意味合いにおいては、深く自覚し、行動していかなければならないのではないかとは思うわけです。

さて……。
あの時代から60年以上が経過し、状況がかわったこともあります。

知識人と非知識人の差というものがそのひとつだと思います。

知識人と非知識人との差違には雲泥の差が歴史的にはあったことは否定できない事実です。しかしこの現代、情報アクセスという点に置いてはその境界はあいまいになりつつあります。もちろん、その情報をどのように受容し・料理するかについては温度差はありますが(リテラシー能力の高低)、環境としては、総知識人化しているのが現代かもしれません。

だからこそ、「一切の責任を国家権力に押しつけ、「国家によって欺かれた」だけだと自らを被害者に仕立て」るような「情報人」「知識人」であってはならないのだろうと思います。

はっきりいえば、オルテガ(José Ortega y Gasset,1883−1955)が『大衆の反逆』のなかで指摘している通り、どれだけ情報人や知識人がorzな馬鹿野郎であったとしても、「最大の危険は国家である」ことは間違いありません。存在自体が巨悪ですからw

しかし、そこに責任をすべて収斂させてしまうやり方もよくありません。

であるならば、私たちひとりひとりが、責任ある「情報人」「知識人」として振る舞っていく・目の前の人と向いあっていく、そういう必要があるのだろうと思います。


「そういう重大な問題から逃避したり怠惰であるのは、西欧では知識人と呼ばれないのだということを聞いたが、それが事実なら、この国には疑似知識人ばかりがいて真の知識人は存在しないことになる」。

国家権力というものは、まあ、国民総疑似化していればいるほど都合がよいわけですから、そうならないように、情報や知識と向いあっていくほかありません。

現代の倫理学では情報をどのように扱うのかという分野があり、そのジャンルを「情報倫理」と呼びます。例えば個人情報なんかをどのように扱っていくのかという部門です。

現況としては法整備の関連からテクネーの問題として議論されることが多く辟易とするところもあるのですが(これは生命倫理に関しても同様)、根本的には、すべての情報・知識の背後には人間が存在するということです。

この事実を失念してしまうと、まあ、人間が人間を人間として扱わない「俺には責任ないんす」的なバヤイ時代になってしまうと思いますよ。






⇒ ココログ版 「戦時下ジャーナリズム」に関するスケッチ、「『優しさ』と無責任はまったく別の概念である」: Essais d'herméneutique







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