「日本人はどの国民より何ごとでも道理に従おうとします」ってか???






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  ザビエルは日本人が合理的な話を喜ぶことについて語っている。

 日本人はどの国民より何ごとでも道理に従おうとします。日本人はいつも相手の話に聞き耳を立て、しつこいほど質問するので、私たちと論じ合うときも、仲間同士で語り合うときも、話は全く切りがありません。彼らは地球が円いことを知らず、また、太陽と星の動きについても何も知りませんでした。ですから彼らが私たちに質問し、私たちが水星や稲妻や雨の原因について説明すると、彼らは私たちの話に夢中になって楽しそうに聞き入り、私たちをたいへん偉い学者だと思って心から尊敬しました。私たちはすぐれた知識を持っていると思われたために、彼らの心に教えの種をまく道を開くことができました。
    −−ピーター・ミルワード(松本たま訳)『ザビエルの見た日本』講談社学術文庫、1998年、89頁。

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いつからこのようになってしまったのだろう……と、缶珈琲BOSSのCMでおなじみの宇宙人ジョーンズが「この惑星の住民は……」という雰囲気で「この国の住民は……」“いつからこのようになってしまったのだろう”とぼやきたい昨今です。

恨みと意趣返しのスケープゴート叩きを“祭”と崇めて、自分のふがいなさをスルーするルサンチマン根性に「この国の住民は……」いつからなってしまったのでしょうかねぇ。

まあ、そのひとつは通俗的ですが、やはり徳川政権の宗教を利用した精神支配のくびきということになるでしょうが……もちろん、それにすべてを「還元」しようとは思いませんが……、統一政権誕生以前の庶民の暮らしぶりというもののレポートを読んでいると、自由で闊達、知的好奇心旺盛なひとびとというのがたくさんいたということが見て取れます。

ちょうどザビエル(Francisco de Xavier,1506−1552)の滞在日記を抄録した本を読んでいたのですが、当時の庶民たちは、僧侶という特定階層がorz……要するに実は頭が悪いけれども悪徳の限りを尽くすことでは誰の追従も及ばないという件……だったというこは極めて理解しており、それと同時に、だから自分たちで探求していかなければならない……という精神であふれていたことが見て取れます。

まあ、それが前述したとおりの切支丹摘発「管理・官吏」としての地位の安定とその見返りとしての寺請制度によって大きく転換させられてしまうんだよなあっーて考えざるをえませんよね。

くどいけど、それだけが原因ではないんですけどね、「自分で考えない」人間を量産する体制の病根は大きいですね。

しかも労農派と講座派のマルクス主義者たちが「日本資本主義論争」において、明治維新をどのように評価するかとけんけん諤々の論争をしたけれども、彼らは正鵠を得ていない。

なにしろ、維新後に必要なのは、社会主義革命(労農派)でも民主主義革命(講座派)でもありませんよ。

そもそも、明治維新そのものが革命でも転回でもなくなんでもなく、支配者と装置の入れ替えにしかすぎませんし、「民は愚かに保て」という認識では同一線上でしょうw

ぐだぐだ考察するよりも、自分自身がそうした知的風土に拘束されている上で@スピヴァク女史(Gayatri Chakravorty Spivak,1942−)、足跡をのこしていく他ないんだが……、

まあ、いずれにしても、1603年の江戸幕府成立以降現代にいたるまでの知的精神文化はまったくかわっていないよ、ホント。

辟易とするね。






⇒ ココログ版 「日本人はどの国民より何ごとでも道理に従おうとします」ってか???: Essais d'herméneutique







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