俗衆や、思索せぬ人々は、人間の幸福を、動物的個我の幸福の中で理解している






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 生命は幸福に対する志向である。幸福への志向が生命である。あらゆる人が生命をこう理解してきたし、現に理解しており、常にこう理解しつづけるだろう。それゆえ、人間の生命は人間的な幸福への志向であり、人間的な幸福への志向が人間の生命なのである。俗衆や、思索せぬ人々は、人間の幸福を、動物的個我の幸福の中で理解している。
 誤った科学は、生命の定義から幸福の概念を除去して、生命を動物的な生存の中で理解しているため、生命の幸福を動物的な幸福の中にのみ認めて、俗衆の迷いと一致してしまう。
 どちらの場合にも、迷いは個我、すなわち学者のいう個性と、理性的な意識との混同から生ずる。理性的な意識は個我を内包している。ところが個我は理性的な意識をうちに含んではいない。個我とは、動物と、動物である人間との特性である。理性的な意識とは一人の人間の特性である。
    −−トルストイ原卓也訳)『人生論』新潮文庫、平成十年、88−89頁。

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昨日は息子殿と前々から約束していたので、市井の職場で休みをとってから、家族三人で上野の国立科学博物館恩賜上野動物園に行って来ました。

だいたい年に1度は訪れているのですが、この博物館+動物園というのはまさにフルコースといいますか、歩いてじっくりみてまる1日かかるコースですから疲れるものですね(苦笑

まあ、生き物とか生き物の歴史に息子殿は興味があるようで、ご同道した次第ですが、、それはそれで大事なことなので、きっちりとつとめをはたした次第です。

ただ、またまた家族ネタで恐縮ですが、そーいう子供の関心をどれだけフォローしていくことができるのかというのは、これまた通俗的で恐縮ですが、大事だろうというところもあり、何度も来ている博物館・動物園ではありますが、眼を輝かせ、その関心事を深めていこうとする集中力・好奇心には驚くばかりです。

このへんは、金をいくらかけるとかどうのという議論ではありませんが(もちろん密接にリンクはしていますけれども)、出来る限り応援はしていきたいものでございます。

まあ、親バカ的でこれまた恐縮ですが(しかし決してモンスターなんとやらとは違いますよ)、息子殿も私の背中を見て育った所為でしょうか……。

不幸にもw 研究者になりたいというのがあるようで、まあ、関心が自然科学ですので、是非そちらにはいっていってもらいたいとは思います。

なにしろ、人文科学の、それも最もマイナーな神学だの、宗教学だのに首を突っ込むとろくなことはありしゃしませんから、どんどんそちらの性質を伸ばしてほしいものだとは思います。

しかし、まあ、細君からは「あんたより、この子のほうが早く、専任になるとかwww」

……って、、

「ちょ、をい」

……という不幸の預言を頂戴したりしましたが、まあ、預言というのは神の言葉を人間が「預かる」から預言であるので、これは推察にすぎないとしてスルーしたいと思います。


ただ、しかし……。

いろんな展示があるなかで彼的にクリティカルヒットだったのは、「スンギール遺跡の墓」。

地球館地下二階、人類の進化のコーナーにある北部ユーラシアの墓内部の複製なのですが、スンギール遺跡から見つかった10歳ぐらいの子供二人の墓がそれです。

中央あたりに頭を寄せて二体並んでおりますが、寄り添うように寝ている二人にはマンモスの牙で装飾されていたり、云々かんぬんで、人間が人間を丁寧に弔うひとつの歴史的記録になるわけですけれども……、彼的な問題としては、

「果たして彼らは生まれる変わることができたのか」

……という形而上学的・神学・宗学的問題であり、

ただひとつ懸念事項としてになりますが、

「そちらに進むことは大変なことになりますよ」

……と先達は忠告したい、ということです。

しかし、そのへんの学問も大事なのだけれどもネ


すいません、あんまり公共的でない議論で。

でも彼が幸福になろうとする方途に対しては親としては全面的にフォローするというのがどうやらDNA的なものですな(苦笑






⇒ ココログ版 俗衆や、思索せぬ人々は、人間の幸福を、動物的個我の幸福の中で理解している: Essais d'herméneutique











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