権力が保証する幸福の利益のために権力を意欲する人間たち

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 七二一 〔三四〇〕(524-25)
 権力への無能力。この無能力がよそおう偽善と聡明さが、服従(隷属、義務の矜持、道義心・・・)にほかならない。恭順、献身、愛(代償や間接的な自己の引き立てとしての命令者の理想化、神格化)にほかならない。宿命論、諦念にほかならない。「客観性」にほかならない。自虐(ストア主義、禁欲、「無私」、「聖化」)にほかならない。批判、ペシミズム、悲憤、憂悶にほかならない。「美しき魂」、「徳」、「自己神格化」、「隠遁」、「この世の汚れからの逃避」その他にほかならない(−−権力への無能力の洞察が軽蔑としておのれを変装している)。なんらかの権力をなんとか行使しようとの、ないしは、おのれ自身が権力をもっているとかりに見せかけようとの欲求が、いたるところにあらわれている−−陶酔として。
 権力が保証する幸福の利益のために権力を意欲する人間たち、すなわち、政治的党派。
 幸福や福祉には不利であり、それを犠牲にすることが見えすいているにもかかわらず権力を意欲する他の人間たち、すなわち野心家。
 さもなければ、おのれが依存したくない他人の手にその権力がにぎられるという、たんにそれだけの理由から権力を意欲する他の人間たち。
    −−ニーチェ(原祐訳)『権力への意志 下 ニーチェ全集3』ちくま学芸文庫、1993年、244頁。

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どうやらこの國の権力エリートというものは、官民とわず、ひとりひとりの人間を虫けら同然に考えていることがはっきりした。

そしてそれをマス・メディアが補完していくという件。

なんたるちあだ。






⇒ ココログ版 権力が保証する幸福の利益のために権力を意欲する人間たち: Essais d'herméneutique



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