苦しんで獲得した、よりよき幸福
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罪と憂いとは、人生において密接なつながりを持つ。だから、ここでも、それらは幸福への道をさえぎる連合した生涯として諸君の前にあらわれて来るのである。
通常、まず罪をば生活からとり除かねばならぬ。そののちに初めて、憂いを追い払うことも本気に考えられるのである。なぜなら、真に憂いのないただ一つの状態は、人間の生得の素質ではなく、また、なにか幸運な外的境遇の所産でもない。それは苦しんで獲得した、よりよき幸福である。ヨブは、以前の偶然の仕合せな境遇からこのようなよりよき幸福へ導かれるのである。詩篇二三篇に美しく描かれているような、そのような永遠にかわらぬ確実な幸福へ、われわれすべてのものが、一人の例外もなく達すべきであり、また達することができる。すなわち、罪と憂いとが門番として立っている門をまず通り抜けさえすれば、直ちにそこへ行くことが出来るのである。
−−ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『幸福論 第二部』岩波文庫、1962年、66頁。
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どうも頭の痛くなることばかりで憂鬱と不安を抱える毎日です。
それに付け加えて、昨年に比べるとどうも櫻の開花が実に遅い。
通常だと三月も二〇日になれば、それなりに咲き始めるものですが、今年は随分ゆっくりとしております。
春の到来を見事に告げる花びらに出会うことがなかなかできないこの時節にいらだっているのかもしれませんが、今日は仕事へ行く途中、普段通らない自転車道へ足を運ぶと……
まだまだつぼみが多いのですが思った以上に咲き始めていました!
少し心が潤ったようなひとときです。
櫻は辛く厳しい長い冬を絶え、ようやくその姿を現しはじめました。
いろいろと悩み・凹み・憤ることの多い連日ですが、「それをそれとして」“済ませることなく”櫻のように歩みたいものです。
ヒルティ(Carl Hilty,1833−1909)の曰く「罪と憂いとが門番として立っている門をまず通り抜けさえすれば、直ちにそこへ行くことが出来るのである」だそうな。
至言ですネ。
勝つ必要はないのですが、負けずに生きていくことが必ず自分自身とその自分自身が済む世の中を変革できるはずだと確信しつつ。
⇒ ココログ版 苦しんで獲得した、よりよき幸福: Essais d'herméneutique