あらゆる産業は人間の生活のためである。利潤もそうである
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経済組織も一つの人倫的組織であり、従って「財」を媒介として人倫の道を実現しようとするものである。利潤を自己目的とし、無制限に利潤を追求する立場は、人倫の喪失態にほかならない。あらゆる産業は人間の生活のためである。利潤もそうである。そうして人間の生活の意義は人倫の道を実現するところにある。利潤が自己目的となれば、人間の生活の意義は人倫の道を実現するところにある。利潤が自己目的となれば、人間の生活は利潤のための手段となり、その意義を喪失するであろう。だから経済組織はあくまでも人倫の道に合うように確信されなくてはならない。国民への献身を目ざしつつ、しかもおのれの能率を極度に発揮するような組織に改められなくてはならない。それは単に自由主義でもなく、また統制主義でもなく、個性の解放を徹底することによってかえって全体への奉仕が実現されるような、二重の構造を持ったものでなくてはならぬであろう。これは個と全とが相即連関する人間存在の構造を忠実に経済組織の上に実現することである。そこでは自由競争による能率の増進が充分に活かされるとともに、その弊害が統制主義的な全体への見とおしによって取り除かれ、計画経済による全体の調和・むだの排除が達成せられるとともに、その圧制の弊害もまた自由主義的な活動の喜びによって打ち克たれる。企業家は無制限な利潤を目ざす代わりに事業に必要な利潤におのれを制限し、その技倆や手腕を国民への貢献の方へ振り向けるであろう。そうしてこの態度は彼の事業をして一層意義あるものたらしめるであろう。それとともに労働者は、その労働の公共的な意義を問わずしてただ単に賃金の値上げにのみ専心するというごとき態度をすて、その労働における熟練や製作の向上のうちに人倫の道を実現する喜びを感ずるに至るであろう。そうしてこの態度は彼の労働を一層価値高きものたらしめるであろう。
国民の当に為すべき経済組織の革新は、右の方向に向かわなくてはならぬ。
−−和辻哲郎『倫理学 四』岩波文庫、2007年、276−277頁。
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和辻哲郎(1889−1960)が、自身のの理想的共同体論(人倫的組織)の立場から、あるべき経済活動全般を素描した部分です。
昭和初期の金融資本の破天荒さをその眼で見た和辻にとって、無制約な利潤追求とは悪に他ならないものと映ったに違いない。さりとてその反動としての共産主義……和辻のそれに対する理解にもかなりは限界があるのですが……に対しても率直な違和感もある。
その意味では管理型の資本主義……それが後には軍部主導の統制経済にすり替わっていくわけですが……の模索を「利潤を自己目的とし、無制限に利潤を追求する立場は、人倫の喪失態にほかならない」と表現したのでしょう。
そして和辻が提示して見せた上述の経済組織のあり方というものは、これまで現出したことのない一つの理想的な範型なのかもしれません。
「まあ、青臭いよ」
……などとテキトーにスルーすることも可能でしょう。
しかし、色んな形の「現実論」というものが色あせてしまった現在を踏まえるならば、ある程度それを目ざして組み立て直していく努力まで捨ててしまうこともないのではないか……そのことも酷く実感してしまいます。
確かに、まあ、人倫の範型を和辻哲郎は生まれ育った故郷の田園風景のなかに見出しておりそれも一つの限界はありますが、現実にはその枠組みが強固であろうと集合離散に適したものであろうと、いずれにしても人間は人間世界を離れて生きていくことはできません。
和辻の議論を最高の模範とする必要はありませんが、これまで自分たちが「そんな理想的なことをいっても絵空事だよ」とシニカルに対応していたことは少し控えながら、対話的共同討議空間のなかから、新しい人倫、新しい経済組織……といったものは、できる範囲からひとつひとつ組み立て直していくことは必要なのではないでしょうかね。
「あらゆる産業は人間の生活のためである。利潤もそうである。そうして人間の生活の意義は人倫の道を実現するところにある。利潤が自己目的となれば、人間の生活の意義は人倫の道を実現するところにある。利潤が自己目的となれば、人間の生活は利潤のための手段となり、その意義を喪失するであろう。だから経済組織はあくまでも人倫の道に合うように確信されなくてはならない」。
まあ、いずれにしても、冒頭のこの一文は、産業や利潤に関わらず、広く人間世界をよりよく変革するためのひとつの定式になっていることだけは疑う余地ができませんね。
⇒ ココログ版 あらゆる産業は人間の生活のためである。利潤もそうである: Essais d'herméneutique