人間の顔と精神に積まれた多くの層を知ること



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 ついでながら、人間がしばしば年をとって、若いころ持たなかったような、歴史に対する感覚を得るのは、体験と忍苦の数十年を経過するあいだに人間の顔と精神に積まれた多くの層を知ることにもとづいている。根本において、必ずしも意識されてはないが、老人はみな歴史的に考える。少年に似つかわしいいちばん表面の層に、老人は満足しない。老人とて、いちばん表面の層を無視しようとも消し去ろうとも思いはしないが、その下に、それあって初めて現在に十分な値打ちが与えられるような体験の層の系列をも認めることを欲するのである。
    −−ヘッセ(高橋健二訳)「秋の体験」、『幸福論』新潮文庫、平成十六年、143−144頁。

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文豪・ヘッセ(Hermann Hesse,1877−1962)の謂わんとしていることはよくよく理解できるのが、少し補足するなら、その人間が「体験と忍苦」をどれほど経験したか=生きた年齢だけでもない……そんなことを、このところ実感します。

もちろん、それは齢を積み重ねた人々を軽視するという軽佻浮薄な批判ではありませんので、そこを勘違いされては困るわけですし、老若男女とわず、「体験と忍苦の数十年を経過するあいだに人間の顔と精神に積まれた多くの層」を経験したその「値打ち」を否定するわけでもありません。

しかし、ひとつだけいえるのは、その長さだけを測りにして判断するのは、早計の嫌いもある……そのことだけは否定できません。

とくに3.11以降……。

いわゆる若い人々であっても、その衝撃という「体験と忍苦」から、本物の動きをはじめた人間が数多く出てきたことをまのあたりにすると、そんなことを思ってしまうわけです。

いずれにしても、「若いからダメだ」とか「長年生きていたからすごいんだ」という通俗的な徳論ではないんだろうと思います。

そのひとが「体験と忍苦」……それがたとえ1回切りの出来事であったとしても……から、何を学び、どう動こうとしているのか、ということを丁寧にやっていくことができるのであれば、「歴史的に考える」(=現在から未来への展望をデザインする)ことが可能になるのじゃないのかと。

いわゆる、メッキが剥がれた有象無象は沢山出てきました。
しかしそれと同じぐらい沢山、無名の本物も出てきた。

僕もそうありたいし、この事件を契機に、時代の歯車を後退させるようにしたくはない。

そんなことをこのところよく痛感いたします。

ということで、麒麟クラッシクラガーでローストポーク
焼豚ほど諄くないのがいいねい。






⇒ ココログ版 人間の顔と精神に積まれた多くの層を知ること: Essais d'herméneutique




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