無秩序はただわれわれが求めていない秩序である





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 無秩序の観念についても私は同じように言いたい。なぜ宇宙は秩序をもっているか。どうして規則が不規則的なものに、形相が質料に押しつけられるのか。われわれの思考が自分自身を事物のうちに見いだすのはどういうわけか。この問題は、古代の哲学者においては存在の問題であったが、近世の哲学者において認識の問題となっているけれども、同じような錯覚から生じたものである。無秩序の観念がはっきりした意味をもつのは、人間の仕事つまり私の言う製作の領域においてであって創造の領域においてではないと考えれば、この問題は消失する。無秩序はただわれわれが求めていない秩序である。あなた方は思考によってさえ一つの秩序を除去しておいて別の秩序が出てこないようにさせるわけにはいかない。目的や意志がないとしても、機構はあるからである。機構が負けると、意志や気まぐれや目的が勝ってくる。しかしこの二つの秩序の一方を期待してるのに別の方が出てくると、無秩序だと行って、そこにあるものを、そこにあってもいい、またはあるはずのものを表わす言葉で述べて、自分の残念がる心をもちを客観的にするのである。してみると、すべての無秩序は二つのことをふくんでいる。われわれの外には一つの秩序が、またわれわれの内には、それだけがわれわれの関心を惹く別の秩序の表象がある。そこで除去はやはり代置を意味する。すべての秩序の除去すなわち絶対的無秩序の観念は、仮説に従って、二つの面をふくむ操作に対してただ一つの禁止しか認めないことになるから、この場合なんと言っても矛盾をふくむのである。そこで絶対的な無秩序の観念は、音の結合、「声の息(フラートゥス・ウォーキス)」しか表わしていないか、それとも何かに応じているとすれば、精神が機構から目的へ、目的から機構へ飛び移って、自分がいる場所を示すために、とかくそのたびごとに自分のいない点を指すようになる動きを表すかである。してみると、秩序を除去しようとすれば、二つもしくはそれ以上の秩序を考えているのである。それはつまり、「秩序の欠如」の上に付けくわえる秩序という考え方は虚妄意味するもので、この問題は消失するということになる。
    −−ベルクソン(河野与一訳)「可能性と事象性」、『思想と動くもの』岩波文庫、1998年、148−150頁。

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無秩序が明瞭に理解される現場というのは、「創造」の領域ではなく「製作」の領域においてかあ。

ふうむ。

そしてひとつの秩序が成立するためにはもうひとつ別の秩序が必要かあ。
秩序は伴侶を必要とするのねん。

そして「除去は代置」を随伴するかあ。

ふうむ。






⇒ ココログ版 無秩序はただわれわれが求めていない秩序である: Essais d'herméneutique