「自分自身の理性を使う勇気をもて」ということだ




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 このように個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが、公衆がみずからを啓蒙することは可能なのである。そして自由を与えさえすれば、公衆が未成年状態から抜けだすのは、ほとんど避けられないことなのである。というのも、公衆のうちにはつねに自分で考えることをする人が、わずかながらいるし、後見人を自称する人々のうちにも、こうした人がいるからである。このような人々は、みずからの力で未成年状態の<くびき>を投げ捨てて、だれにでもみずから考えるという使命と固有の価値があるという信念を広めてゆき、理性をもってこの信念に敬意を払う精神を周囲に広めていくのだ。
 しかし注意が必要なことがある。それまで後見人たちによってこの<くびき>のもとにおかれていた公衆は、みずからは啓蒙する能力のない後見人たちに唆(そそのか)されると、みずからをこの<くびき>のもとにとどまらせるようにと、後見人たちに迫ることすらあるのである。これはあらかじめ植えつけられた先入観というものが、どれほど有害なものであるかをはっきりと示している。先入観は、それを受けつけた人々にも、そもそもこうした先入観を作り出した人々にも、いわば復讐するのである。こうして公衆の啓蒙には長い時間がかかることになる。
 おそらく革命を起こせば、独裁的な支配者による専制や、利益のために抑圧する体制や、支配欲にかられた抑圧体制などは転覆させることができるだろう。しかし革命を起こしても、ほんとうの意味で公衆の考え方を革新することはできないのだ。新たな先入観が生まれて、これが古い先入観ともども、大衆をひきまわす手綱として使われることになるなだけなのだ。
    −−カント(中山元訳)「啓蒙とは何か」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫、2006年、13−14頁。

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ちょっとカント(Immanuel Kant,1724−1804)の有名な言葉「自分自身の知性を用いる勇気をもて!」が気になって、その言葉の記された「啓蒙とは何か」を再読したのですが、いろいろと驚くべきことが多くひとつ紹介します。

たしかに、様々な問題であふれかえっているのが私たちの生きている社会です。
その矛盾を解消するためには、その不備を手直ししていく必要があります。

改める点は改め、伸ばすべき点は伸ばしていく……漸進的な改良は不可欠です。

しかし、それだけ「改めて」も何も変わらないというのも、歴史を振り返ると証左ですよね。

「おそらく革命を起こせば、独裁的な支配者による専制や、利益のために抑圧する体制や、支配欲にかられた抑圧体制などは転覆させることができるだろう。しかし革命を起こしても、ほんとうの意味で公衆の考え方を革新することはできないのだ」。

暴力と革命の世紀といわれた20世紀をカントは目撃しておりません。しかしカントの指摘はそのままその時代精神を深く撃つ一節です。

外在的なシステムの改良は不要だ!ということではありません。

しかしそれと同じぐらい、否、それ以上、人間自身が冷静に自分を見つめ直し、自分自身改める挑戦というのも必要不可欠です。

そのためにこそ「自分自身の知性を用いる勇気」を選択する他ありません。

しかしこのカントの言葉は改訓でも命令でもありません。
むしろこの言葉(中山訳では「自分自身の理性を使う勇気をもて」)は、河辺にゆらぐか細い葦のような取るに足らない存在にすぎない人間そのものへの励ましなのかも知れませんね。



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 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サベーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分自身の理性を使う勇気をもて」ということだ。
    −−カント(中山元訳)「啓蒙とは何か」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫、2006年、10頁。

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⇒ ココログ版 「自分自身の理性を使う勇気をもて」ということだ: Essais d'herméneutique