いかなる技術、いかなる研究(メドトス)も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる
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いかなる技術、いかなる研究(メドトス)も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる。「善」をもって「万物の希求するところ」となした解明の見事だといえる所以である。
種々の場合の目的とするものの間には、しかしながら、明らかに一つの差別が見られるのであって、すなわち、活動それ自体が目的とするである場合もあれば、活動以外の何らかの成果が目的である場合もある。目的が何らか働きそのもの以外にあるといった場合にあっては、活動それ自身よりも成果のほうがより善きものであるのが自然であろう。
−−アリストテレス(高田三郎訳)『二コマコス倫理学 上』岩波文庫、1972年、15頁。
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短大の哲学の講義、昨日の第6回の前半にて哲学史の流れ(現代まで)を抑えて、いよいよ、後半部分からテーマ、問題意識集中型の講義へ切り替え!
その初回としてジョン・デューイ(John Dewey,1859−1952)のプラグマティズムというよりも、デューイ自身の問題意識を紹介。
そのひとつが手段と目的の混同といってよいでしょう。
ご存じの通り、デューイは、黒船来航後の日米修好通商条約締結の翌年に誕生し、合衆国によって行われた人類初の水爆実験・アイビー作戦(Operation Ivy)の年に亡くなっております。
幕末から現代までおよそ100年近く生きたデューイは何をみたのでしょうか。
それは現代に生きる矛盾の全てを見たと言っても過言ではありません。
時系列で見ていくならば……
アメリカ史上最大の内乱である南北戦争と戦後の本格的な産業革命。
フロンティアの消滅と列強の植民地競争。
そして国際連合の成立と冷戦の開始・・・。
100年かけてデューイが目撃したものは様々あるでしょうが、そしてそれは、「人間のために」というかけ声が「人間そのもの」を疎外するものとして機能した現実です。
アリストテレス(Aristoteles,384 BC−322 BC)は、人間の生きる目的を最高善の探究と喝破し、それを幸福と呼びました。
しかし目的の連鎖の途中でひとは最高善の探究を失念して現実に惑溺してしまう。
その歴史から何を学び、何を活かしていくのか。
デューイの足跡にはそのヒントが沢山詰まっているという寸法です。
徳論臭を避けたいところですが、それでもなお、ある程度は「何のために」というのがない限り、人間の行いのたいていの部分というのは、うまくいかないことが多いというのは否定することのできない事実ですね。
⇒ ココログ版 いかなる技術、いかなる研究(メドトス)も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる: Essais d'herméneutique