「中」的な「状態」には、「時宜を心得ている」「わきまえがある」



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 人生においては休養もあることだし、休養に際しては遊びや楽しみが持たれるのであるから、ここにおいても何らか調子のとれた交歓といったようなものがあり、そこには語るべき−−同じくまた聞いていい−−ことがらと仕方があると考えられる。そして、かくかくのひとびとの間において語り、かくかくのひとびとから聞くということも、決してどちらでもいいことではないであろう。かかることがらに関しても「中」に対する過程と不足の存するのは明らかかである。
 滑稽が度を越えるひとびとは、あらゆる仕方があるただ滑稽ならざることを恐れ、猥雑ならぬことがらを語ろうとか揶揄される相手かたに苦痛を与えないようにしようとかいうことよりも、むしろひたすらに笑を誘うことを目標とするものなるがゆえに、彼らは道化者であり、卑陋なひとびとであると考えられる。これに反して、自分もまったく滑稽なことをいわないし、滑稽なことを口にするひとびとに対して腹を立てるというごときは、野暮なかたくるしいひとびとであると考えられる。
 調子のとれた冗談で楽しませるひとは機知的(エウトラペロス)なひとと呼ばれる。すなわち「円転自在な」ひとという本来の意味である。けだしこのような表面的な動きも倫理的性状(エートス)の運動であると考えられ、あたかも肉体がその運動からして判断されるごとく、同様の仕方でまた運動によって倫理的性状が判断されるのである。
 だが、滑稽なことはいたるところにあるし、また、たいがいのひとびとは冗談や揶揄を然るべき以上に喜ぶものであるがゆえに、道化者までも、たしなみのあるひとびとなみに機知的なひとびとと呼ばれることも行なわれてはいる。両者がしかし異なったものであり、しかもその差異の僅少でないことはわれわれの述べたところからして明らかであろう。
このような「中」的な「状態」には、「時宜を心得ている」「わきまえがある」ということが固有なのであって、わきまえのあるひとの特徴は、およそちゃんとしたひととか自由人とかに調和するような性質のことがらを語りまた聞くというところに存する。すなわち、かようなひとびとには、同じく冗談ではあっても、口にしたり聞いたりするにふさわしいことがらといったものがあるのであって、自由人の諧謔は下人のそれとは異なるし、教養のあるひとと教養のないひととでも異なる。
    −−アリストテレス高田三郎訳『二コマコス倫理学 上』岩波文庫、1971年、164ー165頁。

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中庸とは極端を足して二で割ったではなく、極端を排しながら「創造」していくという難行。「度を越えない」節度は、一日や二日で身に付くものではありませんが、「ゴルァァ」ってがなりちらすことは一日や二日で身に付くものですけどね(苦笑





⇒ ココログ版 「中」的な「状態」には、「時宜を心得ている」「わきまえがある」: Essais d'herméneutique