注意は、もっとも高度な段階では、祈りと同じものである
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……注意は、もっとも高度な段階では、祈りと同じものである。そのためには、信仰と愛があらかじめ必要である。
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完全にどんな夾雑物もない注意が祈りである。
−−ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵』ちくま学芸文庫、1995年、193頁。
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順調な復興の進展を“演出”するニュースと、原発めぐる両者の喧々諤々の喧噪……、それに加えて連日の猛暑の所為で、大事なことを失念しそうになる毎日です。
ただ、慎重に注意を払うならば、現地入りした知己や、被災地に住む友人に話を聞くと、復興が全くといってよいほど進んでいない現実に当惑してしまいます。
局所をクローズアップさせて何かしらの利益誘導を謀る演出とは裏腹に、災害と人災の爪痕は残されたまま。
もう、過去のことと他所に注意を向けてはならないんじゃないか、と思われて他なりません。
ちょうど、七夕が近くなったので、息子殿が短冊をしたためておりましたが、失念しそうになった自分をもう一度大切なところへ引き戻してくれた感があります。
「つなみにあった人が早く おうちえかえれますようにー」
おまえ、「え」は「へ」だろうってツッコミそうになりましたが、まず最初にその一枚を書いてから、「○○が欲しい」とか書いたので、……親バカモード入りますが……少し瞠目した次第。
思えば、家族三人であの日あの時、東京ですけれども、その現場に立ち会い、翌日以降、照らし出される現実に三人が当惑しましたし、息子殿にとっては「地震」「津波」というのは大きなショックだったようですが、決して忘れることなく「同苦」しようと懸命にいきていたようで……ひとまず、、、
感謝。
十年、二十年という長いスパンになることは承知ですが「注意」を怠らないようにしたいと思います。
⇒ ココログ版 注意は、もっとも高度な段階では、祈りと同じものである: Essais d'herméneutique