宗教と迷信との間の主なる相違は、迷信は無智を基礎とし、宗教は智慧を基礎とする点にあるということ




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書簡七十三 スピノザからオルデンブルクへ
書簡七十一への返事

 次に奇蹟に関して申せば、私は反対に、神の啓示の確実性はその教説の智慧の上にのみ築かれ得るのであって、奇蹟即ち無智の上には築かれ得ないと確信します。これは私が、神学・政治論の第六章で奇蹟を論じた際に十分詳細に示したところであります。ここに私の尚付言したい一事は、私の考えによれば、宗教と迷信との間の主なる相違は、迷信は無智を基礎とし、宗教は智慧を基礎とする点にあるということです。そして、キリスト教徒たちが他の人々と彼らの信仰や隣人愛によって区別されず、また聖霊その他の果実(フルクタス)によっても区別されず、ただ彼らの意見によって区別されるにすぎないというのも、キリスト教徒たちは、すべての人々と同様奇蹟にのみ、即ちすべての悪の源泉である無智にのみ頼り、このようにして彼らの信仰(それが本来は真なるものであっても)を迷信に変えているからだと思います。しかしこの弊風に対して適当な対策を施すことを王たちが許すかどうかは、私の甚だ疑問とするところであります。
    −−畠中尚志訳『スピノザ往復書簡集』岩波文庫、1958年、325−326頁。

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スピノザ(Baruch De Spinoza,1632−1677)の宗教思想は、哲学的側面から見るならば汎神論、神学的スタンツから見るならば理神論の立場として分類されていることは論をまちません。

後者について少し見てみると、近代市民社会の誕生以降、啓蒙主義の影響をうけた理神論が彼の死後、生成展開していくわけですが、その特徴を読みとるならば、宗教の普遍性(神の存在等々)に関しては認めるけれども、様々な宗教のもつ独自性(ユニークネス)なところを少々等閑視してしまうという考えであったと思います。

この場合、例えば、イエス・キリストの出来事なんかはスルーされてしまい、これが過度になった場合、(良かれ悪しかれですが)その還元できない歴史を積み重ねてきたそれぞれの宗教のユニークさを、作業仮説としての「神」概念だけで片づけてしまう議論へ傾いてしまうことになってしまいます。

それがもっと激しくなると、抽象化の極みとして登場する、フランス革命後の「最高存在の祭典」みたいになってしまう訳で、そうすると信仰、宗教という次元とまた別のものになってしまいます。


ただし……

だから、スピノザは、ユダヤ教会から破門されたわけだし……などと早計はしたくないんです。

スピノザの議論が後の展開で変容してしまうことは確かですが、「私の考えによれば、宗教と迷信との間の主なる相違は、迷信は無智を基礎とし、宗教は智慧を基礎とする点にあるということです」というスピノザの教説は、ドグマのもつ暴力から自由に議論しなければならない、そして諸宗教間の殴り合いではなく対話が必要なんだという、命がけの取り組みのなかから出てきたという点をふまえることが必要なんだと思います。

たしかにスピノザの発想には、伝統的な神学や教会なるものからすれば、異端的な議論、作業仮説的なきらいがあることは確かです。

しかし、無反省な伝統的なもののもつ暴力から「いったん」自由になって、もういちど自分で精査する、そして相手と向かい合っていくことは大切だと思います。

スピノザ自身が生活を追われながら、血と汗をながし、そのなかで紡ぎ出した議論ということはふまえないと、単なる「理神論orz」ってしてしまうのはまずいのではないか……ってところなんですよね。

そのへんをふまえたうえで、「私の考えによれば、宗教と迷信との間の主なる相違は、迷信は無智を基礎とし、宗教は智慧を基礎とする点にあるということです」という言葉をもう一度現代の問題として考察していく。

これは僕自身の一つの課題かも知れません。







⇒ ココログ版 宗教と迷信との間の主なる相違は、迷信は無智を基礎とし、宗教は智慧を基礎とする点にあるということ: Essais d'herméneutique



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