大学とは、常に現実政策に追随してチンドン屋を勤める事ではない






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 大学令第一条には大学の使命を規定して学術の蘊奥並にその応用を研究し、且つ教授すること、人格を陶冶すること、国家思想を涵養することの三つ挙げて居る。この中最も直接に大学の本質たるものは学問である。勿論学問の研究は実行家の実行を問題とし、殊に社会科学はそれ以外の対象をもたない。又、学問研究の結果を実行家の利用に供すること、個々の問題に就て参考意見を述べること等も固より妨げない。併し乍ら学問の本来の使命は実行家の実行に対する批判であり、常に現実政策に追随してチンドン屋を勤める事ではない。現在は具体的政策達成の為めに凡ゆる手段を動員して居る時世であるが、苟くも学問の権威、真理の権威がある限りは、実用と学問的の真実さは厳重に区別されなければならない。此処に大学なるものの本質があり、大学教授の任務があると確信する。大学令に『国家思想を涵養し』云々とある如く、国家を軽視することが帝国大学朱子にかなはぬ事は勿論である。併し乍ら実行者の現実の政策が本来の国家の理想に適ふか否か見分得ぬ様な人間は大学教授ではない。大学に於て国家思想を涵養するといふのは学術的に涵養する事である。浅薄な俗流的な国家思想を排除して学問的な国家思想を養成することにある。時流によって動揺する如きものでなく真に学問の基礎の上に国家思想をよりねりかためて把握しなければならない。学問的真実さ、真理に忠実にして真理の為めには何者をも怖れぬ人格、而して学術的鍛錬を経た深い意味の国家思想、その様な頭の持主を教育するのが大学であると思ふ。
    −−矢内原忠雄「終講の辞」、矢内原忠雄個人誌『通信』一九三七年一二月号終刊号。

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新渡戸稲造(1862−1933)の感化を受け、無教会主義の内村鑑三(1861−1930)の高弟のひとりとして知られるのが、戦後、東大総長を務めた矢内原忠雄(1893−1961)。

1937年、盧溝橋事件の直後、矢内原は『中央公論』に「国家の理想」と題する評論を寄せ、国家がその理想とする正義に反したときは、国民の中から批判が出てこなければならないことを主張して批判され、同じ年、個人的に発行していたキリスト教個人雑誌『通信』に掲載した南京大虐殺を糾弾する一文が不穏の言動として問題となり、その年末、追放される形で東京帝大経済学部教授の辞任を余儀なくされます。

その個人誌『通信』の最終号に掲載されているのが「終講の辞」。

同年12月2日午前10時。
初冬の陽光がかげる東京帝国大学法経第七番教室において、矢内原は三百人以上の学生、聴講者たちを前にして上のように語ったという。

大学は矢内原が指摘する通り、当然のこととして「実行家の実行を問題」にします。
しかしそれ以上に大切にするのは、実行そのもののメタ批判というところです。

「併し乍ら学問の本来の使命は実行家の実行に対する批判であり、常に現実政策に追随してチンドン屋を勤める事ではない。現在は具体的政策達成の為めに凡ゆる手段を動員して居る時世であるが、苟くも学問の権威、真理の権威がある限りは、実用と学問的の真実さは厳重に区別されなければならない。此処に大学なるものの本質があり、大学教授の任務があると確信する」。

矢内原は反国家主義的ということで大学から放逐されてしまうわけですが、「終講の辞」においても真理探求の学府としての大学“性”という観点から、どこまでも仮象にすぎない国家なるものを相対化していこうとしますが、ここに彼の偉大さと矜持というものをみてとることができるというものです。

戦後、締め付けていた箍というものは、外からの力によって外されるわけですが、そこからまた60年以上も経過するとしらずしらずのうちに、船底にはりつくフジツボのような矯正というものがまたつき始めてきた昨今かも知れません。


大学令の三項目に即しながら、大学の本質を滔々と述べ、静まりかえった教室内にすすり泣きが聞こえ始まった時、矢内原は次のように結びます。

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 私の望む処は、私が去った後で大学がファッショ化することを極力恐れる。大学が外部の外部の情勢に刺戟されて動くことはあり得ることであり、又、或る程度必要でもあらうが、流れのまにまに外部の動く通りに動くことを私は大学、殊に経済学部の為めに衷心恐れる。若しさういふことであるなら学問は当然滅びるであらう。内田外相は嘗て日本を焦土と化しても満州国を授けると演説したが、之を文字通りに取れば到底許されぬ事である。併し誰も之を文字通りに取る者はなく、ただ『極力』といふ意味を強く言ったのだといふ事を知って居る。現象の表面、言葉の表面を越えた処の学問的真実さ、人格的真実さ、かかる真実さを有つ学生を養成するのが大学の使命である。之が私の信念である。諸君は之を終生失ふことなくして、進んでいかれる事を望む。私は大学と研究室と仲間と学生とに別れて、外に出る。併し私自身はこの事を何とも思ってゐない。私は身体を滅して魂を滅すことの出来ない者を恐れない。私は誰をも恐れもしなければ、憎みも恨みもしない。但し身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する。諸君はその様な人間にならない様に……
    −−矢内原、前掲書。

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もちろん、現在の高等教育の環境が「ファッショ化」してきているなどというつもりはもちろんありませんが、大学が就職予備校化していくその現況を振り返るならば、社会の潮流を「批判」するのではなく、「常に現実政策に追随」しているという意味で矢内原の懸念した「チンドン屋」化しているのかもしれません。

「現象の表面、言葉の表面を越えた処の学問的真実さ、人格的真実さ、かかる真実さを有つ学生を養成するのが大学の使命」だとは思うのですけど……ねぇ。

まあ、あまりこういうことをいうとアレなワケですけど・・・(ちょぉ。








⇒ ココログ版 大学とは、常に現実政策に追随してチンドン屋を勤める事ではない: Essais d'herméneutique


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