懐疑とは戦士のような心のことであって、掏摸のような心のことではない




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 人々はしばしば次のように語る、懐疑は疲れ、傷つき、病める心のことであって、健康で活動する心の知らないことであると。私は彼らがこの言葉によって何を意味しようとしておるかを認識し、また彼らの意味することが事実であることを承認することを惜しまない。彼らのいう懐疑は、私がここに正しきもしくは真の懐疑とよぶところのものでないことは明らかである。真の懐疑は柔軟ではなくて剛健な心、自分自身をも否定して恐れない心、ヘーゲルの言葉を用いるならば真理の勇気(Der Muy der wahrheit)をもった心において可能である。それは戦士のような心のことであって、掏摸のような心のことではない。かようにして懐疑という言葉に伴いやすい種々の不純な意味を退けて、それが含まねばならぬ積極的な方面を特に高調するために、私は反省という言葉を選び反省をもって語られざる哲学のとらねばらない正当な出発点と見倣そうと思う。
    −−三木清『語られざる哲学』講談社学術文庫、1977年、19−20頁。

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先のエントリーに続き、懐疑から真理へと至る門が開かれるという話ですが、今日は三木清(1897−1945)の指摘を紹介。

同じネタでスイマセン。てか、最近、ホント時間と余裕がなくて……恐縮の次第。

さて……
懐疑というものは、確かに「懐疑は疲れ、傷つき、病める心のこと」だと世人は嘆き、なるべくそれに近づかないようにと配慮しますが、そんなものは本物の「懐疑」ではなく「懐疑する」ことへ「惑溺」するだけの話なんでしょうね。

ここには真の懐疑は存在しません。だから「疲れ、傷ちき、病める心」となってしまう。

では、本来的な懐疑とは何か。

三木は、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770−1831)の言葉を紹介しながら、「真理の勇気(Der Muy der wahrheit)をもった心」によって初めて可能になる「戦士のような心」であり、「掏摸のような心」ではないいいます。

「懐疑する」ことへの「惑溺」は「掏摸のような心」であり、本当の懐疑とは「戦士のような心」。後者のごとくありたいものです。






⇒ ココログ版 懐疑とは戦士のような心のことであって、掏摸のような心のことではない: Essais d'herméneutique


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