「一生に一度は」自分自身へと立ち帰り、自分にとってこれまでは正しいと思われて来たすべての学問を転覆させ、それを新たに建て直すよう試みるのでなければならない






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 第一に、真剣に哲学者になろうとする人は誰でも、「一生に一度は」自分自身へと立ち帰り、自分にとってこれまでは正しいと思われて来たすべての学問を転覆させ、それを新たに建て直すよう試みるのでなければならない。哲学ないし知恵とは、哲学する者の一人一人に関わる重大事である。それは自分の知恵とならねばならず、普遍的に探求されるものでありながら自ら獲得した知として、初めからそしてその歩みの一歩一歩において、自らの絶対的な洞察に基づいて責任を持てるような知、とならねばならない。このような目標に向かって生きる決心によってのみ、私は哲学者となるのだが、もしこのような決心をしたなら、それによって私は、まったくの無知から始める道を選んだことになる。そこでは明らかに、真正な知い導いてくれる前進の方法をどうしたら見出すことができるか、について考えることが第一である。したがって、デカルトの行った省察は、デカルトという哲学者の単に個人的な事柄を目指したものではなく、ましてや、ただ印象深い文学的形態をもって最初の哲学的基礎づけの叙述を目指したものでもない。それはむしろ、哲学を始める者それぞれに必要な省察の原型を表しており、そこからのみ哲学は根元的に誕生することができるのだ。
    −−フッサール浜渦辰二訳)『デカルト省察岩波文庫、2001年、18−19頁。

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フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl,1859−1938)が『デカルト省察』を刊行したのは1931年。

パリでの講演をもとにした晩年の著作ですが、このなかで『イデーン?』でも展開された、間主観性や他我の問題について主として論じられております。

晩年のフッサールは、中期の『イデーン』から大きく変化したといわれるが、彼自身の主題は、終始一貫して変わっていないのではないかと思います。

徹底的に認識論を遂行することで、認識論の限界の解消を目指していく知的格闘というものは、それは現象学的還元とエポケーによって可能であるということのひとつの事例なのではないかと思っても見たりするわけですからね。

その精度をどのように高めていくのか……その紆余曲折・試行錯誤というのが「展開」の実情にほかならず、その格闘というものは、テキトーな間主観性への「逃避」なんていうものじゃアねえだろう……素人読みですけれども、年代順にフッサールの著作を追っかけてみると、その経緯というものが手に取るように分かってしまう次第です。

さて……。

先に『デカルト省察』の冒頭の一節を紹介しましたが、もはや補足することもコメンタリーすることも不要なほど明快な議論ですよね。

これまでなんども、生産的な意味での「懐疑」について何度も言及してきましたが、フッサールのこの言葉は、人間がいきる上で「それはどうなのか」って問いかけを探究することの大切さを、極めて平易に「宣言」したマニフェストのようなものかもしれません。

思うにソクラテス(Socrates,469 BC−399 BC)の問いかけ、そしてその問いかけを洗練させたデカルト(René Descartes,1596−1650)の探究のアクチュアリティにもう一度立ち返れ……フッサールの「宣言」には西洋哲学史の……もちろんフランス現代思想をテキトーに引いてその暴力性を「指弾」することは簡単ですけれども、字義通りの意味で……という人間に対する「素朴な反省」への促しとして、その言葉の意義を考えさせられてしまうんですよね。

自分に向き合ってくるモノに対する「謙虚さ」こそ「ほんとうの懐疑」なのかもしれませんね。









⇒ ココログ版 「一生に一度は」自分自身へと立ち帰り、自分にとってこれまでは正しいと思われて来たすべての学問を転覆させ、それを新たに建て直すよう試みるのでなければならない: Essais d'herméneutique


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