一言で言えば、−−私の意志の根本的改善によってのみ私の現存在と私の使命の上に新しい光が射す
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一言で言えば、−−私の意志の根本的改善によってのみ私の現存在と私の使命の上に新しい光が射す。この改善なしには、私がたといどんなに省察しても、また優れた精神的賜物を授けられていても、私のうちにも私の周りにもただ暗黒が存在するだけである。心の改善のみが真の智慧に至るのである。さあ、実際、そのように止ることなく私の生全体がこの一つの目的を目指して流れていくように。
−−フィヒテ(岩崎武雄訳)「人間の使命」、『世界の名著43 フィヒテ シェリング』中央公論社、1980年、224頁。
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はっきり言えば、フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte,1762−1814)のみならず、ドイツ観念論の手合いと、そのお零れに預かるショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer,1788−1860)は大嫌いなのですが、このフィヒテの言葉にだけは、首肯してしまいます。
結局の所、「評論家」を気取った他人事としての批評は、糞の役にも立たない……。
カント(Immanuel Kant,1724−1804)を援用するまでもなく、批評(Kritik)することはいうまでもなく必要なんです。
だけど、他人事として批評することは、客観性を担保することができないってヴェーバー(Max Weber,1864−1920)が指摘した訳じゃないですか!!!
準拠する価値観を自覚しながら、何事かを遂行するしかできませんし、その過程でその訂正もありうるわけですから、その辺に盲目になってしまい、「まあ、そうなんですヨ」……なんて嘯いても、「説明」したことにはならないし、それは「解説」ともほど遠いし、結局の所、その負荷を承知のうえで、「私は……」っていうところのアカウンタビリティーを欠落してしまうと、ホント、意味がないのだけれども……。
「自分自身は……」っていうのが抜きになったコピペの言説ほどイミフなものはないんですけどネ。
ううむ。
呑んでねよ。
⇒ ココログ版 一言で言えば、--私の意志の根本的改善によってのみ私の現存在と私の使命の上に新しい光が射す: Essais d'herméneutique