政治上の目的の為に学問が作られるのでなく、学問はいつでも批判的指導的立場に立つものでなければならない





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 政治上の目的の為に学問が作られるのでなく、学問はいつでも批判的指導的立場に立つものでなければならない。而して学問がそういう役目を果たすには、学問というものは何処までも客観的ということを理想とせねばならない、何処までも深い広い理論的基礎の上に立てられなければならない。私は学問というものが、実生活を離れて存在すべきものだというのではない、学問の為めの学問でなければならぬと主張するのではない。かつ如何なる時代に如何なる学問が発展したかは、その時代の社会的構造によるという学問の歴史性を否定するものでもない。しかのみならず、我々が如何に客観的ということを理想とするといっても、その時代の社会的影響を脱することはできないであろう。しかし苟も学問に従事し学問によって人生に貢献しようとするものは、何処までも真理を理想として深大なる人生の建設に努力せなければならない。真の政治というものの目的も、かかるものの建設にあるのでなければならぬ。
    −−西田幾多郎「知識の客観性」、『続思索と体験 「続思索と体験」以後』岩波文庫、1980年、171−172頁。

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ちょいと、原稿(紀要論文)の〆切を一ヶ月まちがえていたこともあって、情けない話ですが我ながら、少し、テンパっているところもありますので、あれこれ議論できずすいません。

ただ西田幾多郎(1870−1945)の指摘は学問専従者でなかったとしても肝に銘じなければならない一節なのではないかと思う次第です。

旧ソ連邦における反遺伝学キャンペーンとしての似非科学の称賛という「ルイセンコ論争」ってやつは決して過去のものではないし、国家による総動員レベルでなくとも、あやしいマガイものばかりで、このところ凹むことが多いです。

しかし、真理に使えるということは、そうした容喙=妖怪を退けながら、且つ、実生活をはなれて何かが存在するというわけでもないわけですから、そのへんの嗅覚が鈍ってくると、何をやってもorzになってしまうのでしょうか……ねぇ。

さて……。

噂に聞いたイオン(TOPVALUE)の158円?「ラガービール」で、海苔巻きチキン唐揚げで「いつものなう」=深夜の寝酒をやりましたが……。

正直「微妙」。

……ですネ。

量販店なら180円ぐらいでスーパードライが買えますし、80円程度で第三のそれが手に入りますからねぇ。

どちらを取るかっていう「状況」における「選択」の話しになっちゃうよなーっていうのが正味の味わいでした。

ですけれども、こうした生活感覚を欠如してしまって、「学問の王国」から「お前ら、アホ」ってすらーっていう感覚になってしまうと、どの学問も終わって仕舞うのだろうし、逆に、金がないから目の前の餌につられて……以下略……みたいなことをやってしまうのもオワッタなんだろうなあ・・・とだけは思います。





⇒ ココログ版 政治上の目的の為に学問が作られるのでなく、学問はいつでも批判的指導的立場に立つものでなければならない: Essais d'herméneutique


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