覚え書:今週の本棚:渡辺保・評 『語りえぬものを語る』=野矢茂樹・著」、『毎日新聞』2011年9月18日(日)付。




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今週の本棚:渡辺保・評 『語りえぬものを語る』=野矢茂樹・著

 (講談社・2625円)

 ◇「言語的な世界」を逸脱する現実を捉える
 ガラにもなく私のような門外漢が、哲学の本を書評するのは無謀な話かもしれない。しかし面白い本だし、その面白さも普通の読み物としての面白さだからいいだろう。

 まず文章がいい。平易で、簡潔で、分かりやすい。その上洒脱(しゃだつ)でさえある。たとえばその冒頭。

 「人間はあれこれと後悔する。こんな連載、引き受けなければよかった、等々。では猫はどうか。いや、別に猫にかぎらない。人間以外の動物は、後悔をするのだろうか。猫が鳥に襲いかかる。逃げられる。でも、惜しかった。そのときその猫は、『もう少し忍び足で近づいてから飛びかかればよかったにゃ』などという日本語に翻訳できるような仕方で後悔するのだろうか」

 これが哲学の本か。この分かりやすさは、入門書の類(たぐい)の、ワザと噛(か)み砕いてお分かりになるように書きましたという態度がチラチラする嫌味なものではない。本当に考え抜いてよく分かっていることを、読者と同じ視点で、しかも一ひねりして書いているから面白いのである。

 私は、この視点、いや、精神のあり方が大事だと思う。その精神はどんな難しい問題に出会ってもビクともしないし、かつサラリと受け流す。

 たとえばここにある問題があって、議論が真ッ向から二つに分かれる。どちらにも一理ある。しかし一方に賛成するとどうも何かが物足りない。もう一方も同じ。その時、著者はこういう。「どっちもありじゃないか」。こう簡単に書くと著者の態度がいかにもどっちつかずの曖昧さに聞こえるが、そうではない。二つの議論の間にあるものを掬(すく)い取ろうとしているのである。しかしそれには現実を考え抜く辛抱強さが要る。そう、この人には、現実的な感覚と柔軟な精神の働きがあって、それが著者独特の視点を作っているのである。

 この本の中で著者はフッとつぶやく。哲学は学問的に厳密であろうとするあまり、時に現実を忘れる。このつぶやきは何気ないようであるが実はアカデミックな哲学に対する批判であり、一般読者の、普通の常識に立った視点である。この視点ゆえに、私のような門外漢が読んでも面白い読み物が出来上った。

 こうして私たちは、人間という存在、世界のあり方、人間の認識の仕方、その行動の意味、そこで言語がどういう役割を果たすのかを知ることになる。それは一方で社会と人間、集団と個人の関係に及び、さまざまな思考の可能性を含んで示唆に富んでいる。たとえば「一寸先は闇か」という章では、私はしばしば東日本大震災のことを思った。絶対などというものがこの世に存在しないかぎり「想定外」などという言葉も存在するはずがないのである。

 しかしこの本の白眉(はくび)は、なんといっても書名にまでなった「語りえぬもの」を「語る」という分析である。

 私たちを取り囲む世界は、二つの側面を持つ。一つは言葉によって表現することの出来るもの。もう一つは、とても言葉では言い尽くせないものである。言葉で言い尽くせる場合。たとえば道を歩く犬を見て「ああ犬だ」といった時、私たちは「犬」という概念を使って「犬」を表現する。しかし個別の犬がどういう動きをし、どういう表情をしているかは概念だけでは表現できない。その微妙な印象を言葉にすることはきわめて難しい。著者は、この言葉に言い尽くせない世界を「非言語的な場」と呼び、こういう。

 「われわれもまた分節化されない非言語的な場に晒(さら)されている。だが人間の場合には、そこに言語によって分節化された世界もまた開けている。非言語的な場に晒されつつ、言語的に文節化された世界に生きる、この二重性こそ、人間の特徴である」

 この「二重性」のなかで、「非言語的な場」はたえず細かなデテールを提供し、「言語的な世界」から逸脱し、あふれ続けていく。したがって「世界を語り尽くすことはできない」。そのあふれ続けていくものを著者は「実在性(リアリティ)」と呼ぶ。

 著者の、あの現実感覚はここでもっとも遺憾なく発揮されている。逸脱していくもの、言語化の網の目をすり抜けていくものを決して見逃したりせずに拾い上げ、それを一つの関係、運動として捉えている。大急ぎで紹介したから分かりにくいところもあるだろうが、この動態的な思考こそこの本の中心であり、著者の精神の鮮明なところである。

 私は大いに感心した。しかしそれは私の特殊な事情によるかもしれない。私はほとんど毎日劇場に通い、舞台の上に役者の身のこなしの微妙繊細な感覚や、そこに描かれる蜃気楼(しんきろう)のような幻想を言語化しようとしている。それはまるで夏の逃げ水のように捉えにくい。それを相手に日々悪戦苦闘している。そういう私にとって著者の主張は切実な実感だからである。

 しかし逃げ水と苦闘しているのは私だけではないだろう。言語を扱う人間の全て、いや、言語に準じる記号を扱う人間の全てにとって、いま、自分がなにをしているのかは日々の切実な問題であり、かつまたそれを十分に意識することが必要に違いないからである。
    −−「今週の本棚:渡辺保・評 『語りえぬものを語る』=野矢茂樹・著」、『毎日新聞』2011年9月18日(日)付。

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