自分で考えると同時に学ぶこと



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 子供は遊技から学習という厳粛な行為へ移行することによって少年になる。子供たちはこの時代に、好奇心、とくに歴史に対する好奇心にもえ始める。子供たちにとって彼らに直接には現われない諸表象が問題になる。しかし主要な問題はここでは、彼らの心のなかに、彼らが本来そうあるべきものに実際まだなっていないという感情が目ざめるということであり、彼らがかこまれて生きている大人のようになりたいという願望が生き生きとしているということである。ここから子供たちに模倣欲が発生する。
    −−ヘーゲル舟山信一訳)『精神哲学 上』岩波文庫、1965年、128−129頁。

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哲学を講義していると、よく学生諸氏から言われるといいますか、「哲学ってこういうものですよね」ってものの一つが、結局のところ「(哲学とは一人一人が考えるものだから)他者……それは人間の場合もあるし、古典名著といった過去の賢者のそれということも……から学ぶ必要はないし、そういうもんですよね」ってうものです。

たしかに、哲学とは、他人に考えてもらう代わりに「自分自身」で考えるものということは間違いありません。

しかし、恣意的であってはならない……これが哲学的思考のルールといってもよいかと思います。その辺を誤ってしまうと、いかに他人に考えてもらう代わりに「自分自身」で考えたとしても、それは哲学的思索とは全くことなったものになってしまう……その辺を月曜の授業でお話しした次第です。

これは倫理学……何しろ倫理学は哲学の一部門ですから……でも同様ですが、既成概念がどれほど正しいものだとしても、自分自身でそれを考える・検証していくのが哲学的思索の始まります。

いわば「それどうよ」ってツッコミ精神といっても過言ではありません。そのツッコミ精神というものが、まさに「知を愛する」ことであり、「自分自身で考える」ということです。

しかし、哲学的思索とは、論理学が哲学のこれまた一部門であるように、恣意的・勝手気まま・矛盾に満ちた論証であることを大変嫌いいます。

この部分を失念してしまうとまあ、まずいわけですネ。

思い起こせば、人類の教師ソクラテス(Socrates, c. 469 BC−399 BC)は「汝自身を知れ」をモットーに、他人思考の当時のアテナイ人たちに「自分自身で考えてみようじゃないか」と対話を繰り広げ、対話によって相互訂正を行い、いわば、臆見から普遍的真理へ到ろうとしました。

ソクラテスはいきた人間と対話しました。しかしこの相互訂正としての対話というものは、人間だけが対象ではありません。時には自然が相手であったりすることも、そして過去の賢者たちが残した知的財産が相手であることもあります。

そうした自分とは異なるものと正面から向き合い検討・検証していくことが自分自身で考えることと同時に必要になってきます(もちろん、その論証のルールを学びその議論の枠内で勧めていくことも大事です)。

ホント、ここを一歩間違えるとそれはとんでもない思考になってしまいますから、少し時間をさいて訳ですが、ここ5年ぐらいでしょうか……、そうした反応・受け止め方が多くなってきているなーってことには驚くとともに一種の恐怖すら感じてしまいます。

自分自身で考える、それと同時に、自分自身の考えが独りよがりなものでないのかどうかそれを確認しながら思索する。そしてその後者の実践事例の一つが広義の対話という概念になるかと思いますが、これをもっと広い意味で捉えるならば、他者から学ぶという構えといってもよいかと思います。

確かに、自分自身で考えることは必要です。しかし自分自身で考えることが、人間や世界、自然や環境と孤立した自分自身を対象として遂行するならば、それはとてもいただけないものになってしまいます。だからこそ、他者から学び、自分自身を検討していく……。
確かに他者から学習しても自分自身で考えなければ意味がない。しかしそれと同時にいくら自分で考えても他者から学習しないのであれば、それは独断専行的な危険な思考に陥ってしまう。

孔子(Confucius,551 BC−479 BC)が『論語』(『論語』為政篇)で「学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し 思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」と指摘する通りです。そしてこの一節で興味深いのは「学んで思わざれば」と同時に「思うて学ばざれば」を併置している点でしょうか。

その意味では、「(哲学とは一人一人が考えるものだから)他者……それは人間の場合もあるし、古典名著といった過去の賢者のそれということも……から学ぶ必要はないし、そういうもんですよね」という言い方は成立できない……という話しです。

自分で考えつつ、他者から学ぶ。
他者から学びつつ、自分でどこまで考えていく。

この車輪の両軸があってこそ哲学的思索は遂行される・・・。

ここを哲学を学ぶうえで、最初にふまえておく必要はありますね。






⇒ ココログ版 自分で考えると同時に学ぶこと: Essais d'herméneutique


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