覚え書:「田中優子評 原発と原爆−−「核」の戦後精神史」、『毎日新聞』2011年9月25日(日)付。




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田中優子評 原発と原爆−−「核」の戦後精神史
川村湊(河出ブックス・1365円)

不信と恐怖にとらわれた歩み

 「ゴジラ」「アトム」「AKIRA」「ナウシカ」……これら、それぞれの世代になじみ深い映画やアニメの主人公たちの共通点は何か? それは、すべてアメリカに輸出された戦後日本文化であるということと、すべてが「核」にかかわっているということである。
 私も思い出した。子供のころ見ていた「ゴジラ」「モスラ」が、戦後の科学文明によって呼び起こされた(あるいは生み出された)奇形の怪獣であり、その元凶である都市の人間たちが襲われるのは「当然で仕方ないことなのだ」と思っていたことを。しかしその怪獣たちの指し示す科学文明の具体的なものは何かと問われれば、原爆あるいは原水爆実験と答えていいだろう。放射能は原爆とその実験によってまき散らさるのであり、それは戦争の暗喩であると考えていた。しかし、であるならばなぜ、怪獣は被爆国である日本を襲うのか? 今さらながら、その疑問が頭をもたげる。
 筆者は言う。彼ら怪獣は戦後の平和社会を脅かす放射能の恐怖の体現者であり、原水爆実験や第五福竜丸被爆による汚染が「原水爆反対運動」を生み出すとともに、「放射能恐怖映画」をも生み出したのだと。つまり怪獣は放射能への「恐怖」であり、怪獣映画はその恐怖を共有する映画なのである。怪獣にはゴジラモスラの他にも、アンギラスラドン、ドゴラ、そして明らかにヘドロを意味するヘドラまである。宮崎animeはこれらの上に出現したきたのであろうことも想像できる。さらに『マタンゴ』『美女と液体人間』などの娯楽から『原爆の子』『第五福竜丸』『生きものの記録』などの原爆映画まで取り上げているが、それらも戦後日本の精神史のなかに「放射能恐怖映画」として位置づけられる。そして『鉄腕アトム』。
 しかし『鉄腕アトム』は原爆漫画ではない。では「核の平和利用」漫画なのだろうか? 著者は、そのように区別して考えてしまう分裂状態こそが、戦後日本人の「原子力」観なのだという。本書はその分裂を意識化し、原爆と原発を一緒につかんで、映画から小説、評論までを一望のもとに見渡した。
 が、いろいろ挙げて紹介したという意味ではない。本書の最大の特徴は、明確な批評による一刀両断である。『風の谷のナウシカ』は自然による浄化や自然治癒というファンタジーで終わってしまった。『AKIRA』は破壊と崩壊のカタルシスだけが残った。吉本隆明原子力を擁護し、それが原水爆反対運動と反原発の分裂を助長した等々。そして、水上勉井上光晴からノンフィクション『原発ジプシー』まで、数々の「原発」文学を俎上に乗せる。「原発文学史」の筆致に一貫しているのは、「誰かが犠牲とならなければならないという、エネルギー政策は根本的に間違っている」という考えだ。
 3月11日から著者は『福島原発人災記……安全詩話を騙った人々』(現代書館)を書いた。インターネット、ユーチューブ、新聞を駆使して、3月11日から25日までの、福島原発をめぐる動き、発信者の思想傾向、立場など掌握できる限界まですべてメモしていった記録は、極めて貴重で興味深い。まさに怒りの書である。しかしそれでも怒りは収まらなかった。こんどは自分自身に向けられた「怒り」から本書を書いた。原水爆反対を言いながら原発に反対してこなかった、そこから目をそむけていた自分自身への怒りである。原爆と原発……核への不信と恐怖を様々な形にしてきた日本人にとって、この二つは同じ物だったのだと、改めて気づく。
    −−「田中優子評 原発と原爆−−「核」の戦後精神史」、『毎日新聞』2011年9月25日(日)付。

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川村 湊 著
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