「知っているつもりではいるのですが」 「それならひとつ、言ってみてくれたまえ」。
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「君はいま、ほかならぬ自分自身の魂の世話を、あるひとりの男−−君のいうところによれば、ソフィストであるところのひとりの男−−にゆだねようとしているということだ。では、そのソフィストとはそもそも何ものなのか、君がもしそれを知っているとしたら、ぼくは驚くだろう。だが、その点をもし君がしらないでいるとすれば、君は、自分が魂をゆだねる相手がいかなる人かということも−−善いしろものかも悪いしろものかも−−知らないでいるということになる」
「知っているつもりではいるのですが」
「それならひとつ、言ってみてくれたまえ。君の考えではソフィストとは何ものかね」
−−プラトン(藤沢令夫訳)『プロタゴラス』岩波文庫、1988年、19頁。
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月曜は短大で後期3回目の哲学の講義。
だいたい3回の授業で「哲学とは何か」っていうのをざっくりやるわけですが(あとはテーマ別に関心を深める内容)、その幕引きを飾るものとして、僕の方から一応の哲学の定義とやらを……一応ですよ、一応……やるわけですが、それはつぎのようなもの・・・。
「哲学とは、人間が世界について、自分について考えるということ。その際、哲学とは、人間が言語を通して徹底的かつ精確に、合理的に考えようとする試みである。その営みは、自分の考えを“普遍的真理”と思い込んで他者に押しつけようとするものではない。その反対に、自分の考えを他者の吟味に委ね、相互批判を通して、多くの人を納得せしめるような強い考え方(普遍的な考え方や原理)を作り出そうとするものでなければならない」。
もちろん、いろんな流派や強調点の置き方によって様々に定義できるのでしょうが、根本的には言語を通じた共通了解を「目指す」試みということ。
だから、学生諸氏に対してもこの定義へ到達したあとは、その練習をしていただきます。
アタリマエと思っていることを、あえて「言語」を徹底的に使って「説明」してみようというソレです。
今回は、まさにこれもテキトー中のテキトーですが、
「鉛筆とは何か」
考えてもらった次第です。
様々な意見が闊達に出て刺激に満ちたひとときとなったわけですが、この「敢えて」「考えてみる」ってことは大事かもしれませんね。
鉛筆なんて「書くための道具」やないけ……っていわれてしまうとそこまでです。
しかし「書くって何?」「道具って何?」ってなっていくと……、結構「アタリマエ」って思っていることを自分で定義し直すって言うのは面倒であり難儀なんですね。
彼女たちも苦労していたようです(汗
しかし、この「敢えて」言語で「挑戦する」ことは人間にしかできません。
「アタリマエ」ってものは元来「アタリマエ」として存在するわけではありませんし、「アタリマエ」ってテキトーに「認識」しているだけに過ぎません。
その間隙をどこまで突くことが出来るのか。
これが根元的挑戦ですねw
みなさまも是非ご挑戦くださいまし。
臆見(ドクサ)をうち破っていくのが知への愛としての哲学。
臆見とは自分で考えない「他人思考」。
だから「自分で考えない」そしてそのことを「他者とすり合わせない」、「臆病な見解」なわけですよ。
この臆病をうち破る言語への挑戦としての勇気が哲学なんですね。
このブラッシュアップのひととき、生活のなかで大切にしたいものです。
「アタリマエ」なんて斥けてしまうともったいないもんですよw
ちなみにいつも講義がおわるといっぺえやって帰るわけですが、行きつけの飲み屋が開店前。虚しく「てんや」に逗留しましたが、何気に正解でおどろきw
松茸の天ぷらがうましでした。
まさに「てんや」でなんていっぺえやるもんじゃないって臆病な見解うち勝った正解です(ぇ
⇒ ココログ版 「知っているつもりではいるのですが」 「それならひとつ、言ってみてくれたまえ」。: Essais d'herméneutique