世俗化論のわすれもの……ひとつのスケッチ





        • -

 社会の中で確立した地位を占める伝統宗教は、すべて、その運営や取り決めを制度化する傾向があり、その活動や諸関係は硬直化する傾向がある。制度や硬直化といった過程が生じるのは、安定した文化の中では人間は自らのやり方を過去に照らして正当化しようという傾向を明らかにもつことによると思われる。伝統は、特定の取り決めに関する知識と安全性を確保する標準となる。伝統は、社会的には明らかに年長者のの支配と結びつく。年長者はふつう、過去に対して尊敬を抱き、おそらく崇敬の念すら抱くものである。つい最近まで、すべてとはいわないまでもほとんどの人間社会が、過去に照らしてものごとを処理してきた。やっと今世紀になって、主として現在を、またしばだいに未来を顧慮して社会が組織されるようになってきたのである。伝統的な社会では、神の意志を過去から受け取った。しかし、現代社会では人間の意志が、経済計画とか社会計画と呼ぶものの中で、未来に投影されるのである。
 宗教の説教と実践の硬直化は、宗教が専門家の掌中に握られやすかったために、よりいっそう進行した。そらく、宗教専従者は生活の諸領域の中で最も早く現れた専門家であろう。こうした宗教専従者たちは、超自然的なものへの接近を独占することを主張し、多生ともそれに成功したエリートであった。彼らは昔から、社会が必要とする知識を保持してきた。彼らはしばしば、聖堂の守護者あるいは伝統的真理の保護者であり、その真理のいくつかを特別に秘伝の知識あるいは秘伝の実践とすることもできた。彼らの務めは、真理の純粋性を保つことであり、また、冒瀆的な堕落した思想や不純な人々の冒瀆的行為から、聖なるものを守ることであった。聖職者であり、ときには法律家でもあった宗教的専従者たちは、人々に次のような点で奉仕した。すなわち、救いの保証を与え、神託を解釈し、儀式を執り行い、事件を裁き、神の言葉や神の法を宣し、どのような社会関係が適切かを明らかにし、人間相互や集団相互の義務を明確にし、人間と超自然的なものとの間を取りなすといった点である。しかし、彼らはエリートであったため、しばしば俗人の理解をまったく超えた宗教的真理の概念を展開する傾向があった。また、彼らが示す教説は、しばしば不可解かつ難解で、該博ではあるが、ときには曖昧で不明確でもあった。
 そうした状況下では、大多数の俗人のためにかつて示された宗教的真理や宗教活動が、俗人の日常生活の状況や経験からまったくかけ離れ、排他的で特殊なエリートの関心にそったものになってしまうこともしばしばであった。救済と現世の保証を求める人間の要求は至るところで繰り返し起こるもので、このような状況は伝統宗教に対する挑戦となった。
    −−ブライアン・ウィルソン(中野毅・栗原淑江訳)『宗教の社会学 東洋と西洋を比較して』法政大学出版局、2002年、139−140頁。

        • -


歴史を振り返った場合、諸宗教は人間の救済を第一義として様々な組織を形成し「制度宗教」として生成していくのがその常ですが、その歩みは救済をスムーズにはかるだけでなく、「人間のために」というその狙いをゆがめるものとして機能してしまったことは残念ながら事実でしょう。

だからといって宗教における救済の機能というのが全く無役である乃至はそんなの関係ねぇってその硬直化に居直るという二者択一というのは早計にしか過ぎません。

なにしろ、人類の歩みとしてのそれを産湯をすてると同時に赤子まで捨て去るのは暴挙に他なりませんし、同時に、それぞれの場合において、教団・信徒・専従者は、その反省とその黒歴史を踏まえた上での展開というのは必要不可欠なことはいうを待ちませんから。

さて……。
そうした負の側面を大きくスライドさせる事件といえば、やはり近代市民社会の登場がそのひとつになるでしょう。

宗教の担っていた役割を、世俗の市民社会が担うことによって基本的にデザインされた社会構造というわけですが、果たして宗教以上にうまく機能したのかと問い直した場合、疑問が残るも現実です。

先に言及したとおり宗教社会における問題はもちろん反省されてしかるべきですし、近代社会によって囲い込まれ、機能的棲み分け必然だった局面も多々存在します。それはそれでいいと思うんです。しかし、全体としてみるならば、それ以前の世界に対する改革というものが、改革という筋道を大きく超えて反動として機能してしまったことも否めません。いわば、先に指摘した前者の部分が肥大化して事態が進行してしまったというところでしょうか。

これが俗に言う世俗化としての近代社会の形成という評価になりますが、ここで注意したいのは、その形成がいわば「移管」に過ぎなかったという経緯と側面が実は大きくあるということです。市民社会の誕生は宗教に「代わる」新しい装置としては誕生しなかったということがそのことでしょうか。

時代の転換・変化であったことはまぎれもありません。

しかし構造としてみるならば、新しい在り方の誕生というよりも、「移管」「代補」であった事実を失念して捉えすぎていないだろうか……ということです。

「新しさ」に目をひかれ、その点を失念してしまうと大きなミスリードをみてしまいます。

確かに宗教の肩代わりとして機能する学校、工場、会社……。

もちろんその正の側面も多々存在します。

しかし、それと同時により負の側面が強烈に噴出してしまったところも存在しますし、その功績は非難どころか賞賛に値することは承知しております。

ただ、その運営と実行力の合理性とテクノロジーは、近代社会が“残滓”にしかすぎないと見なした当の宗教よりも圧倒的なものがありますから、そこで招来される矛盾も暴力もそれ以上のものとなってしまう……。

このところ、責任を放棄する大人、会社、有力者たち、そして無関心と「無辜」を決め込む市民たち……彼らの姿を見るに付けそんな痛痒を感じてしまうのですが……。

もちろん、だからといってその反動として……いわば反・宗教改革的なノリのような……流血と決断を迫るようなデモーニッシュなロマン主義的傾向も論外ですから、その意味では、現在形成された近代社会というものが、宗教を乗り越えたものではなく、せいぜいのところ劣化モノにすぎないものの、より強力さを増した怪物というぐらいで認識する必要があるのかもしれませんね。

まあ、おうおうにして、それを否定しようとして誕生した“だけ”のものは、それ以上になることはできず、たいていのところ、それをさらに悪化させたコピーに過ぎないってぇ話はよくある事例なわけですけれども、このところそういうものばっかり見せつけられてしまい、甚だ当惑してしまうわけなんですけれどもネ。

勿論、近代社会の成立は、それだけではなく、宗教が守備範囲していなかった誇るべき人類の遺産を提示している点は否定しませんし、その経緯は大切にすべきだとは思います。ただ、代補装置として機能した側面(そしてそれが失念されていること)は踏まえられる必要があると思うわけですけど……ねぇ。

ただかつてのひとびとを「聖職者であり、ときには法律家でもあった宗教的専従者たちは、人々に次のような点で奉仕した。すなわち、救いの保証を与え、神託を解釈し、儀式を執り行い、事件を裁き、神の言葉や神の法を宣し、どのような社会関係が適切かを明らかにし、人間相互や集団相互の義務を明確にし、人間と超自然的なものとの間を取りなすといった点である。しかし、彼らはエリートであったため、しばしば俗人の理解をまったく超えた宗教的真理の概念を展開する傾向があった。また、彼らが示す教説は、しばしば不可解かつ難解で、該博ではあるが、ときには曖昧で不明確でもあった」と指摘し、そのことをあざ笑う現代人もおなじような陥穽に陥り、ひとびとと相対(あいたい)していることだけは確実なんだろけど。






⇒ ココログ版 世俗化論のわすれもの……ひとつのスケッチ: Essais d'herméneutique


3sezoku