私達が慣れ親しんできた区分やグループ化もまた有効だとみなしてはならない





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 私達が慣れ親しんできた区分やグループ化もまた有効だとみなしてはならない。言説の大タイプ間の区別、あるいはまた(科学、文学、哲学、宗教、歴史、フィクションなどの)形式やジャンルの区別をそのまま認めるわけにはいかない。その理由は明らかである。私たち自身の言説の世界においてさえ、私たちはこうした区別を確かなものだとは思っていない。ましてや、まったく別のやり方で分配され、配列され、生活づけられた言表の諸集合を分析する場合にはさらにそうである。例えば、「文学」や「政治学」は最近のカテゴリーであって、中世文化、あるいは古典主義文化に対してさえ、回顧的な仮説によるか、新たなアナロジーあるいは意味論的類似の作用によってのみ適用しうるものである。文学も政治学も、したがってまた哲学も諸科学も、十九世紀にそれらが分節していたようには、十七世紀や十八世紀における言説の場を文節してはいなかったのだ。いずれにせよ、−−私たち自身が受け入れているものにせよ、研究対象となっている諸言説と同時代のものにせよ−−こうした区分それ自体が、反省的なカテゴリー、分類の原理、規範的な規則、制度化されたタイプであることをよく自覚しなくてはならない。それら自体もまた、他の諸言説と並んで分析されるに値するような言説の事実なのである。それは、他の諸言説と、必ず複雑な関係によって結ばれているものだが、普遍的にそれと認められるような内在的で土着の性格を持つわけではないのである。
    −−フーコー石田英敬訳)「科学の考古学について−−〈認識論サークル〉への回答」、小林康夫ほか訳『フーコー・コレクション3 言説・表象』ちくま学芸文庫、2006年、153−154頁。

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ミクロな権力の眼差しが生活のなかに規定としてどのように潜んでいるのか。そしてそれが区別として既に出来上がっているマクロなシステム・構造をどのように補完しているのか。この問題に対しては常に鋭敏な感覚を失ってはならない。

所与の前提を“アリガタク”「そーいうもんだよネ」って認識してしまうとその網に囚われたままになってしまう。

そしてそれだけでなく、そのことによって、知らず知らずのうちに構造的暴力に不可避に荷担してしまう。

この認識と反省がない限り、わたしたちは常に目前の問題を「黙殺」し「続ける」加害者として存在していくことになってしまう。

見落としがちかもしれないけれども、CD売り場で、なぜジャンルが「区別」されるのか……、ここにも配列と言表のテクノロジーは機能している。

あな、恐ろしや。

あな、恐ろしや。








⇒ ココログ版 私達が慣れ親しんできた区分やグループ化もまた有効だとみなしてはならない: Essais d'herméneutique


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