屁理屈屋はありとあらゆることについて理屈をこねる
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理屈をこねるというのはどういうことか? 理屈をこねるというのは、主体性と客観性との情熱的な区別が排除されていることである。屁理屈は、抽象的な思惟としては、弁証法的な十分な深さをもたない。また意見や確信としては、個性の純血種ではない。けれども外延的には、屁理屈屋はその屁理屈で“一見いかにも有利(とく)をする”ように見える。というのは、思想家は自分の専門の学問しか理解することはできないし、男らしい男なら一定の専門に属する事柄についてしか意見をもつことができず、一定の人生観にもとづく一個の確信しかもつことができないが、屁理屈屋はありとあらゆることについて理屈をこねるからである。
−−キルケゴール(桝田啓三郎訳)『現代の批判 他一篇』岩波文庫、1981年、100頁。
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デーブ・スペクター(David Mark Spector、1954−)風に表現するならば、「理屈とはこねるものではなく、通すもの」というところかw
⇒ ココログ版 屁理屈屋はありとあらゆることについて理屈をこねる: Essais d'herméneutique
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