覚え書:「木語:神風の「もしも」=金子秀敏」、『毎日新聞』2011年11月17日(木)付。
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木語:神風の「もしも」=金子秀敏
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元寇(げんこう)の沈没船が長崎県松浦市の鷹島(たかしま)付近で見つかった。泥に埋まった竜骨(キール)の長さは確認されただけで12メートルあった。全長20メートルを超える大型船らしい。「神風」の威力を物語っている。
1281年「弘安の役」では元軍の艦隊が鷹島に集結した。元軍は朝鮮半島を出た「東路軍」と中国浙江省寧波(ニンポー)を出た「江南軍」に分かれていた。両軍は平戸島の沖で合流した。計4400隻の船団に将兵14万人。
7月27日、博多を攻撃するために元軍主力が鷹島に移動した。その3日後、台風が吹いた。(佐伯弘次「モンゴル襲来の衝撃」中央公論新社)
東路軍の船には、モンゴル軍とモンゴル支配下の高麗軍が乗っていた。当時の高麗船には竜骨がなかったという。
江南軍の船は竜骨のある中国船である。モンゴル人司令官のもとに、金国出身の張禧(ちょうき)、李庭(りてい)と南宋出身の范文虎(はんぶんこ)が率いる3艦隊で構成されていた。金国も南宋もモンゴルに征服された国。金は中国の北、南宋は南にあった。
中国の史書「元史」は「8月、台風大いに作し、文虎、庭の艦隊みな壊る。禧の部隊のみ完なり」と書く。(「旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝」岩波文庫)
張禧は、船と船との間隔を50歩以上あけて停泊させたが、ほかの船は密集していた。そのため高波でぶつかり合い壊れたという。鷹島の沈船は范艦隊か李艦隊の主力艦である。
「士卒の半ばが溺死」という被害を出した。だが、「歴史のもしも」があるなら全艦隊が張禧の命じたような台風対策をとっていれば神風の効果はもっと小さかったかもしれない。
台風一過、張は「死を脱した兵はすべて精鋭である。失った食糧は敵地から奪い取れ」と戦闘継続を主張した。戦いに敗れて帰国すれば司令官は死罪である。だが、范は「責任はおれが負う」と言って、張から船を分けてもらい帰国した。
平戸島に4000人の上陸部隊が取り残された。張は船から軍馬70頭を降ろして兵を収容して帰った。後に范は死罪、張は罪を免れた。沈船の写真で歴史のエピソードが身近に思えてくる。
「元寇」を、中国では「元日戦争」と呼ぶ。元旦ではない。元朝中国と日本の戦争という意味である。
たしかに「寇」は強盗行為で、国権の発動たる戦争のことではない。台風を「神風」と言ったり、侵略戦争を「元寇」「蒙古襲来」などと軽く言うのはなぜだろう。その後の日本人の安全保障観に悪影響を与えた。(専門編集委員)
−−「木語:神風の「もしも」=金子秀敏」、『毎日新聞』2011年11月17日(木)付。
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⇒ ココログ版 覚え書:「木語:神風の「もしも」=金子秀敏」、『毎日新聞』2011年11月17日(木)付。: Essais d'herméneutique