真直ぐな、開かれた、信頼に満ちた眼差し






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 ところで、さらに明らかにしなくてはならないことは、彼らは果たしてどのような仕方で「形式的意味における世界観」に、すなわち世界を観入するその仕方に影響を及ぼしているのかということである。まずフッサールについて言わなくてはならないことは、彼が事象そのものに導き、それらの事象を鋭く精神的に眼差しのうちに保持し、真剣に、忠実時、かつ良心的に記述することへと育成したその仕方は、認識における恣意や驕慢から解放し、「素朴で、事象に忠実な、謙虚な認識態度」へと導くものである。そのような認識態度はまた、「先入見からの解放」を齎し、見いだしたものに相応する「囚われのない態度」に導く。そしてフッサールが意識して育成したこのような態度は、われわれの多くをカトリックの真理に対しても解き放ち、こうして彼の一群の弟子は、彼自身は見いだすことのなかった教会への道を見いだしたが、そのことは一つには彼に負っているのである。
 シェーラーの関心の的であったのは、批判的に吟味する眼差し(彼はそれを「瞬きをするように」と言っているが)の代わりに、真直ぐな、開かれた、信頼に満ちた眼差しを、特に価値の世界に対して向けられることであった。多くの人にとって確かにそれは解放であり、至福であったが、前にも述べられたように、シェーラーにとって、さらに彼の影響の下にある多くの人にとって、外からの刺激と自らの方法とに対して、もう少し批判が行われたほうがよかったであろうということは、ここでもはや繰り返し述べておきたい。
 ハイデッガーが形式的に現代の世界観にどのような影響を与えているかということについては、私は今日判断を下そうとは思わない。彼がここ数年の間、大学生や社会人を引きつけ、影響を与えていたことは事実である。それが現代の世界観に対してなんらかの影響を与えていることは疑うことができない。この影響がどのような種類のものであるかということは、私は「事実として」述べることはできない。それは従来よりも一層深い「生の真摯さ」に導くようになる「かも知れない」。というのは、それは決定的な生の諸問題を関心の中心に据えたからである。しかし私見によれば、それが今日までどのように生じてきたかということを見ると、現存在の崩落性が、さらには現存在を取り巻く暗闇が、つまり憂慮が一方的に強調されており、厭世的な、そればかりか虚無的な見解を推進し、われわれのカトリック信仰の要である絶対的存在への定位が損なわれているように思われる。
    −−エディット・シュタイン(中山善樹訳)「現象学の世界観的意義」、中山善樹編訳『現象学からスコラ学へ』九州大学出版会、1996年、66−68頁。

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今日は仕事をしながら……仕事といっても市井の職場の方ですが……久しぶりにびびった。

仕事は所謂GMSというアレですが、店舗と駐車場が直結していないので、駐車場に集積された「カート」を定期的に回収しなきゃいけないんだけど、その業務で、信号待ち……道路を挟んだ向かいが駐車場……をしていると、二人の男子高校生が談笑しながら歩いていて、談笑に集中するあまり、40代後半のオサーン・リーマンと肩が当たったのですが……、、、

オサーン、いきなり、

ゴルァァァァァ

……って大音声にて、ローキック。

そして胸ぐら掴んで以下略。

めんどくさいので言及しておきますが、「一般人」ですよ。

ひさしぶりに、一般人が一般人を、ところかまわず、ガチ・ハードパワーを反射神経的に発動するのを見せていただいた。

もちろん、談笑に集中して周りに目配りをしていなかった高校生が悪いといえば、悪いのですけど、

「そこまでやる必要があるンけ?」

……っていうのもあるわけでして、、、

「はぁ、なんだかな」

……って思わざるを得ない一瞬。

いや、はや。。。

頭に来たらきたであれば、いきなり「ガチンコ」する必要はないし、もっとうまく「戦略」を選択しようとすれば、「証言」集めて「民事」でもやった方がずっとスマートですよ(勿論、僕はそれにも違和感がありますがw

しかしねぇ、、、。

いきなり肉弾戦とは……。

まるで「戦艦ポチョムキン」の階段の虐殺を思い起こさせるようなスローモーション。時間にして多分20秒くらいでしょうか。

いわゆる「フルボッコ」(涙

横断歩道の対岸での惨事でしたが、一緒にならんでいたオジサンと若者が間に入って、とりあえずクローズ。

しかしねぇ……。

「はぁ、なんだかな」

……ですよ。

物事に対して、「批判的に吟味する眼差し」っていうのは、現実な話し、必要不可欠ですよ。そしてそれを発動させるきっかけになるのが、

「おい!」

……っていう脊髄反射ですよ。

しかし、その脊髄反射に「真直ぐな、開かれた、信頼に満ちた眼差し」っていうものが随伴することができない限り、この腐った世界を「価値の世界」に転換することはサ、できないんだよなって思うんだけどねぇ。

ガチ、気分わるし。

きちんと「話せば分かる」と思うンだけどねぇ。









⇒ ココログ版 真直ぐな、開かれた、信頼に満ちた眼差し: Essais d'herméneutique


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